2月19日 <連合赤軍による浅間山荘事件発生(1972年=昭和47)>

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1972年(昭和47)のこの日、逃走中の連合赤軍の坂口弘ら5名が、長野県軽井沢町にある河合楽器保養所の浅間山荘に乱入し、管理人夫人を人質に立てこもる事件が発生しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

連合赤軍というのは、1971〜72年(昭和46〜47)にかけて活動した日本の新左翼組織の1つで、テロ組織です。

1971年(昭和46)7月の結成直後から、翌1972年(昭和47)2月にかけて、妙義山アジトなどで12人に対して反共産主義的であるとして「総括」と呼ばれるリンチ行為を行い、命を奪いました。

警察の山狩りから逃走中であった、坂口弘、坂東國男、吉野雅邦、加藤倫教、加藤元久の5名が長野県軽井沢町にある河合楽器保養所の浅間山荘に乱入し、管理人夫人(当時31歳)を人質に立てこもり、約1,500人の警視庁機動隊及び長野県警察機動隊と同月28日までの10日間にわたり対峙しました。

その間、銃撃戦などを含む人質救出作戦が行われましたが難航し、最終的には建物を破壊して部隊が強行突入し、人質は無事救出され、犯人5名は全員逮捕されました。この事件により、民間人1名、機動隊員2名、計3名の命が奪われ、重軽傷者は27名発生しました。

 

この間、219時間に渡って人質が監禁されていましたが、これは警察が包囲する中での人質事件としては日本最長記録だそうです。

 

この時期、特に軽井沢は厳寒、いや極寒の地です。放水の水が凍って氷柱になっているテレビ映像は、小生は今でも忘れません。

 

それと、不謹慎な話ではありますが、浅間山荘事件といえば、機動隊員が湯気の出ている容器からカップヌードルを食す映像が有名ですね。

Wikipediaにこんなエピソードが出ているのでご紹介しましょう。

事件当時の現場は、平均気温が摂氏マイナス15度前後の寒さで、機動隊員たちのために手配した弁当は凍ってしまった。地元住民が炊き出しを行い、隊員に温かい食事を提供したエピソードがあるが、実際にこれにありつけたのは外周を警備していた長野県警察の隊員のみであり、最前線の警視庁隊員には、相変わらず凍った弁当しか支給できなかったという。やむなく、当時販売が開始されたばかりの日清食品のカップヌードルが隊員に配給された。手軽に調達・調理ができた上に寒い中長期間の勤務に耐える隊員たちに温かい食事を提供できたため、隊員の士気の維持向上に貢献したといわれている。もっとも、佐々淳行の著書によれば、カップヌードルは警視庁が補食として、隊員に定価の半額で頒布したものであるが、当初長野県警察・神奈川県警察の隊員には売らず(警視庁の予算で仕入れ、警視庁が水を汲んで山に運び、警視庁のキッチン・カーで湯を沸かしたからというのがその理由)、警視庁と県警との軋轢を生んだとある。テレビの生放送で、カップヌードルを美味しそうに食べる隊員達の姿が映像に映り、同商品の知名度を一挙に高めた。カップヌードルの売上は発売開始時の1971年には2億円だったのに対して、事件後の1972年には、前年比33.5倍の67億円になっている。

(Wikipedia「あさま山荘事件」から引用)

鳴かず飛ばずだったカップヌードルが、ピークで89.7%(2月28日の平均でも50.8%)という報道特別番組の視聴率日本記録を持つ事件の映像に映り、その存在を知らしめたのは計り知れない宣伝効果があったのでしょうねぇ。

 

お湯さえ沸かせる環境があれば、3分ほどで摂る事が出来る食物は、その害毒は一旦横に置いておいて…きたる大地震の為に常備しておくのが望ましいかもしれません。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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