2月21日 <安徳天皇が即位(1180年=治承4)>

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1180(治承 4)年のこの日、高倉天皇と平清盛の娘徳子との間に生まれた言仁親王(ことひとしんのう)がわずか3歳で、安徳天皇として即位しました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1179年(治承3)11月、平清盛は数千騎の武士を率いて入洛しました。険悪になっていた後白河上皇との間にカタを付ける為です。まず清盛は関白藤原基房(ふじわらのもとふさ)を辞めさせ、その子師家(もろいえ)の官も解きました。続いて太政大臣藤原師長(ふじわらのもちなが)、権大納言源資賢(みなもとのすけつね)以下検非違使(けびいし)の藤原信盛(ふじわらののぶもり)に至るまでなんと39名もの人を解官し、それらのポストに平氏一門と平氏関係者に入れ替えたのです。

 

そして更に清盛は後白河上皇を鳥羽殿に幽閉し、藤原成範(ふじわらのなりのり)、藤原修範(ふじわらのなかのり)、法師静賢(せいけん)、および若干名の例外を除いては官職を解いた人々の参入を禁じ、武士に命じて門を固めさせたのです。前記したひとのうち、藤原基房は太宰権帥(だざいごんのそち)に配転し太宰府に追いやり、また藤原師長は尾張に、源資賢は関外に追放です。

 

この平清盛のクーデターによって、平氏による軍事的独裁政治が始まったのです。

 

このクーデターにおいて、清盛が後白河上皇まで幽閉したのは、じつはワケがあったのです。自らの娘、徳子に生まれた言仁親王を天皇にして、清盛が長く野望として抱いていた「外祖父として国政をにぎる」ことを実現したかったのです。

 

そうして1180(治承 4)年の今日、安徳天皇が即位しました。3歳といっても数え年で、実際の満年齢は1歳4ヶ月でした。安徳天皇の父である高倉天皇は慣例によって院政をとり高倉上皇となりますが、それは形式にすぎず実権は天皇の外祖父であった平清盛が独裁的権力を振るいました。

 

清盛の権勢は、武力的な基盤とともに、数多くの知行国や500以上も所有していた荘園による経済的基盤もありました。そのため武家政権といっても、平安時代の貴族政権にきわめて似た性格を持っていました。とはいっても、その平氏の政権は極めて短期間に終焉を迎えます。この話はまた別項にしましょう。

 

この安徳天皇ですが、平氏が源氏によって滅ぼされる壇ノ浦の戦いで、祖母・二位尼(平時子)に抱き抱えられ海の中に身を投じます。安徳天皇は、歴代最年少の満6歳で崩御されたのです。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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