2月22日 <愛国社結成(1875年=明治8)>

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1875年(明治8)のこの日、高知の立志社(りっししゃ)が中心となり、全国各地の自由民権政社に結集を呼びかけ、大阪で愛国社を結成しました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

征韓論が受け入れられずに辞職した板垣退助・後藤象二郎・江藤新平らは、政府関係者の間に立憲政治論が広まるなかで、1874年(明治7)1月、愛国公党を結成するとともに、民撰議院設立建白書を左院に提出しました。

これは、政府の政治のやり方を一握りの有司(上級の役人)による専制政治であるとして避難するとともに、納税者には当然国政に参与する権利があるとし、民撰議院(国会)を設立して国民を政治に参与させ、官民一体をはかることによって、はじめて国家・政府が強力になることが出来る…と主張するものでした。

 

この「民撰議院設立建白書の提出」に関しては

1月17日 <民撰議院設立建白書を提出(1874年=明治7)>

に書いてありますので、併せてご覧下さい。

 

この建白への賛否を巡って国内では「民撰議院論争」と呼ばれる活発な論争が行われ世の知識人たちは国会の開設問題についての関心を深め、ここに民間から自由民権運動の口火が切られたのでした。

民撰議院設立の建白が、英国人ブラックが東京で発行していた新聞「日新真事誌」に掲載されると、加藤弘之は民撰議院設立の必要性を認めながら、それを拙速に行う事には反対し、寧ろ人民の開明化をはかるための教育の普及や地方議会の開設による訓練が先決だとして、時期尚早論を唱えました。

これに対し、大井憲太郎や津田真道は民撰議院の開設こそ人民を開明化する第一条件だと、その即時(早期)設立を主張しました。

また、建白書を提出した当の板垣退助らは、こうした議論のなかで、参政権を士族や有力な農民・商人に限るべき、と述べています。

当時、こうした議論に加わった人々のなかに民撰議院の設立を原則的に否定するものは殆ど居ませんでいsた。

 

板垣退助は建白後ほどなくして郷里の土佐(高知)に帰り、片岡健吉・林有造らの同志を集めて1874年(明治7)4月に立志社を結成し、自由民権思想の普及につとめました。

そして、その翌1875年(明治8)のこの日、立志社を中心に全国の民権派結社(政社)の代表が大阪に集まって、日本で最初の全国的規模の政社である愛国社を結成したのでした。

全国の民権運動の指導的役割を果たすべく結成された愛国社の結成大会には、徳島・福岡・大分・熊本・石川などの各県から40余人の参加者があり、自由の権利の伸長、天下国家の維持を目指す合議書を公表したほか、東京に本社をおき、年2回大会を開催することを決定しましたが、十分な活動を行わないうちに解散しました。

 

この、いわゆる第一次愛国社は中国・四国・九州地方の士族を集めただけのもので、創立大会を開いて合議書を採択しただけで、自然消滅してしまったワケです。それには理由があり、結成後間もなく板垣が参議に復帰し、また、西南戦争で西郷軍に参加した愛国社有志も多く、自然消滅したのです。

ここに第一次…と書いたからには第二次愛国社、というものがあるのですが、それはまたいずれの日にか記事にする予定です。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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