2月23日 <ペリーが模型機関車を横浜で試運転(1854年=嘉永7)>

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1854年(嘉永 7)のこの日、日米和親条約の締結を迫って前年に続き来航したアメリカのペリーが持ち込んだ蒸気機関車の模型が、横浜の応接所の庭で試運転を行いました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

学習指導要領の改訂により、教科書から「鎖国」という表記が消えることになりました。この記事の「開国」という部分も将来的には表現を変えねばならないですねぇ。

 

1853年(嘉永6)、アメリカ東インド艦隊司令官ペリーは、軍艦4隻を率いて浦賀に来航し、フィルモア大統領の国書を提出して開国を求めました。幕府は、国書を正式に受け取り、翌年に回答すると約して、ペリーには取り敢えず帰って貰いました。

 

この 年号の覚え方は簡単ですよ。この覚え方は河合塾の石川晶康先生の表現です。

(1)(8)(5)(3)んすペリーさん

 

で、ペリーは、翌1854年(嘉永 7)、軍艦7隻を率いて再び浦賀に来航しました。

 

その際、ペリーは、大統領からのプレゼントとして、33種類もの西洋文明の凄さを見せつける品々(蒸気機関車の模型、有線電信機、時計、望遠鏡、小銃、農具、ミシン、地球儀、天球儀、六分儀など)を将軍に贈呈しました。

 

その一つの蒸気機関車の模型が、1854年2月23日、横浜の応接所の庭でその試運転を行ったのです。精巧に作られた機関車は炭水車と客車を連結していたそうです。それを見た人は、驚いたり、感心したりで

「六十間ばかりの間を幾度も走り候」

「まことに不思議な機械で、その工夫にはまったくおどろく」

という記事も残されています。

 

ただ、その機関車は実物の2/3程で、子供は乗れるが大人は乗れない…といった感じの大きさで、動く機関車に引かれた客車の屋根に幕府の役人が乗り、面白さと怖さで屋根にしがみついてたそうです。その模様はペリーの「日本遠征記」にも、かなりの上から目線で以下の様な記事として残っています。

 

 

「6歳の児童を乗せるに足りぬほどの小型だが、日本人は乗らないと承知せず、汽車の屋根に飛び乗った。いかめしい御役人様が広袖をひらひらさせて、時速20マイルで円形の軌道をぐるぐる回っている図は、なかなか珍妙な見ものである。」

 

このペリー艦隊日本遠征記は、amazonでも購入できますので、ご興味のある方はどうぞポチって下さい。

 

ちなみに、日本側もこの時に面白いデモンストレーションを行っていたんですよ。動員した相撲取りたちに米俵を運ばせて、日本人もこれだけ体格が良いのだ、力持ちなんだぞ…とアピールしたのです。米俵1俵は60kg程もありますが、それを一度に何個も運ぶさまはペリー達を驚かせたようです。この様子も、前述の「日本遠征記」に書かれています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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