2月24日 <松岡洋右代表、国政連盟総会から退場(1933年=昭和8)>

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1933年(昭和8)のこの日、国際連盟の臨時総会で、リットン卿の報告書をもとに満州における自治政府の樹立と日本軍の撤退を勧告した決議案は42対1(反対は日本だけ)で可決され、全権松岡洋右(まつおかようすけ)は反対の声明を残して総会からただちに退場しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1932年(昭和7)2月29日、国際連盟の調査団である英国のリットン卿一行が来日し、前年9月18日、中国・満州の奉天(現・瀋陽)郊外の柳条湖で発生した満鉄線路爆破をきっかけに、関東軍は満州のほぼ全域を制圧しました。リットン調査団の来日目的は、日本の中国東北への暴圧の詳細を確認することでした。

関東軍は急きょ同年3月1日に「満州国」の建国を宣言しました。

ところが、ほぼ半年に及ぶ調査の結果、「満州国」は日本軍の謀略によるもので民衆の純粋な願望によるものではなく、同地を共同管理すべき…とリットン卿は報告書をまとめました。

 

その頃の日本は斎藤実内閣でしたが、斎藤内閣は、その成立後まもなく1932年(昭和7)9月15日、日満議定書によって満州国を公式に承認しました。当時、国内では、リットン卿の報告との関係で、満州国を承認することは国際連盟内の日本の立場を困難にする…という議論もありましたが、斎藤内閣の外相内田康哉(うちだこうさい)は満鉄総裁で、満州で軍部との結合を深めていたこともあり、あえて承認に踏み切ったのでした。英国や米国は、なんとか承認を食い止めようと日本に働きかけましたが無駄でした。

 

国際連盟では、リットン卿の報告を受け、1932年(昭和7)12月2日から満州問題の審議を行っていましたが、この時の日本代表は松岡洋右でした。

松岡は外交官出身で、その当時は政友会の代議士でありました。彼は、そののち近衛第二次内閣の外相になり、日本を日米開戦に引きずり込むうえで重要な役割を果たすのですが、当時から達者な英語で熱弁を振るう能力に長けておりました。しかしながら、英雄気取りの独り合点の困った人物でもあったようです。

 

松岡はジュネーブに着くといきなり、日本は満州国承認と矛盾するいかなる案も受け入れる気はないし、日本の威信にかかわる時は連盟を脱退する、と宣言したのでした。

開会前にこうした乱暴な宣言をしたのものですから、会議がうまくいかないことは、最初から分かっていました。しかし、英国をはじめ多くの国は、日本をなだめようと手を尽くしました。

紛争解決案の作成にあたった委員会は、リットン卿の報告をもとに、満州の状態を満州事変以前に戻すことは出来ないが、現制度をも承認するものではないという決議案をつくり、これもすぐ日本に満州国承認取り消しを求めるものではなく、漠然とこの問題に対する連盟の意思表示をする…という趣旨のものである、と説明されました。

 

しかし、日本は、一切の妥協に応じないというかたくなな態度を取ってしまいました。1933年(昭和8)2月20日の閣議で、連盟脱退の方針を決定し、同年のこの日行われた連盟の総会で、上記の委員会の案が賛成42、反対1(日本)、棄権1(タイ)で採択されると、ただちに松岡らは反対の声明を残して退場したのでした。

下にリンクを張ってあるYouTubeの動画は、松岡洋右が国際連盟の総会を退場する時の演説です。

<松岡洋右、国際連盟総会退場前の演説>

 

先にも書きました様に、この松岡洋右は英雄気取りの独り合点野郎だったものですから、こうして尻をまくって連盟の席を蹴って飛び出す立役者としては、ドンピシャの役回り、うってつけの人材だったのです。

 

この後、日本は国際連盟を脱退し、英国や米国をはじめとした世界の多くの国々の反発のなかで、国際的に孤立していくことになるのでした。その話は、またいずれの日にか別記事にする予定です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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