2月27日 <芸者や浮世絵にMerveilleux! 日本、パリ万国博覧会に出品(1867年=慶応3)>

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1867年(慶応3)のこの日、パリで万国博覧会が始まり、日本も初めて主体的に参加しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

幕末期、通商条約の締結によって来日した宣教師のなかには、米国人宣教師で医者のヘボン(Hepburnなのでヘップバーンなんですけどね)は、診療所や英学塾を開き、ヘボン式と呼ばれるローマ字の和英辞典を作るなど積極的に西洋文化を日本人に伝える者も居ました。

また、イギリス公使のオールコックは、日本の美術工芸品を収集して、1862年、ロンドンの世界産業博覧会に出品して日本文化を国際的に紹介する活動も行われました。

今日ご紹介するパリ万国博覧会は1867年4月1日〜11月3日まで、フランスのパリで開催された国際博覧会で、42ヶ国が参加し、会期中に680万人が来場した、というものです。このパリ万博に、日本からは幕府や薩摩藩、佐賀藩などが出品したほか、江戸商人清水卯三郎が茶屋を設け好評を博しました。

このパリ万博の開催日、グレゴリオ暦では1867年4月1日からですが、日本はその頃は和暦であり、慶応3年のこの日がグレゴリオ暦の4月1日なのです。ちなみに万博閉幕の1867年11月3日は慶応3年10月8日です。

 

この万博、江戸幕府はフランスの勧めでこれに参加し、刀・磁気・漆器・葛飾北斎の錦絵などを出品し、その展示品から彼の地の芸術家たちが影響を受け、ヨーロッパにおけるジャポニスムの潮流が起きる契機ともなったのです。

 

また、薩摩藩・佐賀藩もそれぞれ出品し、開場式には薩摩藩代表の家老岩下方平(いわしたみちひら)が琉球諸島王として独自に作った勲章(薩摩琉球国勲章)まで下げて参列していたので、問題となりました。実は出展も「日本薩摩琉球国太守政府」だったのですが、幕府の抗議で、結局「薩摩太守政府」という名に変更することになりました。これは、幕末の政争のゴタゴタが露顕した幕府の大失策となりました。

しかも、薩摩藩代表は洋装で参加しており、江戸幕府代表の御三卿・清水家当主の徳川昭武(第15代将軍徳川慶喜の弟)の和服正装とは対照的で、近代化という観点では一歩リードしていた感もありますね。

 

左から3人目がナポレオン3世で、右から2人目の衣冠の出で立ちなのが江戸幕府代表の徳川昭武(とくがわあきたけ)です。

こちらが、そのパリでの徳川昭武です。

こちらの写真は、日本館の中の茶屋で、柳橋の芸者たちがサービスに当っている様子です。

 

このようにして、様々な形で西洋文明に触れ、日本国内で攘夷の考え方が次第に改められ、むしろ、欧米先進国をみならって近代化を進めるべき、という声が強まっていったのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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