2月4日 <平清盛が亡くなりました(1181年=治承5)>

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1181年(治承5)の閏2月のこの日、平清盛が亡くなりました。享年64歳でした。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1181年(治承5)年2月27日、平清盛は大変な高熱に冒されました。この病気に関しては色々な俗説がありますが、九条兼実(くじょうかねざね)の日記「玉葉(ぎょくよう)」には「頭風(つうふう)」とあり、また藤原定家(ふじわらのさだいえ)の日記「明月記(めいげつき)」には「動熱悶絶」とあります。恐らく、感冒から肺炎を併発し、高熱と頭痛とに悩まされたのではないか、と考えられています。ちなみにWikipediaには「大陸から伝来して流行していた風土病であるマラリアに罹ったとされる。」となっています。

 

お迎えが近くなってきた事を悟った清盛は、後白河法皇のもとに使いを送って次の様に奏上します。

「愚僧の死後は万事宗盛(むねもり)に仰せつけられ、宗盛と御相談のうえお取り計らいくださいますように。」

 

ところが、これに対して確答が得られませんでした、清盛は怨めしく思い、左少弁藤原行隆(ふじわらのゆきたか)を召して、次の様に命じます。

「天下のことは宗盛の命を第一とせよ。宗盛の命に異論をとなえてはならない」

 

清盛の病の有様は、平家物語に次のように書いてあります。

「入道相国、病つきたまひし日よりして、水をだにのどへも入れたまはず。身の内の熱きこと火をたくがごとし。臥したまへる所四五間が内へ入る者は、熱さ堪へがたし。ただのたまふこととては、「あたあた」とばかりなり。少しもただごととは見えざりけり。比叡山より千手井の水を汲み下し、石の船にたたへて、それに降りて冷えたまへば、水おびただしく沸き上がつて、ほどなく湯にぞなりにける。もしや助かりたまふと、筧の水をまかせたれば、石や鉄などの焼けたるやうに、水ほとばしつて寄りつかず。おのづから当たる水は、ほむらとなつて燃えければ、黒煙殿中に満ち満ちて、炎うづまいて上がりけり。」

(「平家物語」より引用)

 

この現代語訳は以下のとおりです。

「入道相国は発病の日以降、水さえのどにもお入れにならない。体内の熱は火を焚くようであった。お休みになっている部屋の四、五間以内に近づく者は、熱さに堪えられない。入道相国がおっしゃるのは、ただ「熱い、熱い」とばかりである。少しもただごととは見えなかった。比叡山から千手井の水を汲み下ろし、石の水槽に満たして、それに入って冷やされると、水がひどく湧き上がり、まもなく湯になってしまった。もしやお助かりになるかと、筧の水を身体に注ぎかけたところ、石や鉄などが焼けたように水が飛び散って寄りつかない。たまたま身体に当たった水は炎となって燃え、黒煙が御殿じゅうに満ちて、炎が渦巻いて上がった。」

 

まぁ、一体どんな熱やねん!という感じではありませんか?

 

この、熱病で亡くなった有様は、まさに「驕れる者は久しからず」で、平家の栄華もほんの一瞬のことでした。 清盛が、平家の滅亡を知らずして他界したのは、ある意味「幸せ」だったのかもしれませんねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いていました。こちらも併せて御覧下さい。

 

今日はここまでです。
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