3月18日 <急進的自由主義新聞「東洋自由新聞」創刊(1881年=明治14)>

スポンサーリンク

1881年(明治14)のこの日、フランスから帰国した華族の西園寺公望(さいおんじきんもち)が社長となり、中江兆民(なかえちょうみん。篤介)を主筆とする「東洋自由新聞」が創刊されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

「東洋自由新聞」は、国会開設を要求する自由民権運動を背景に、1881年(明治14)3月18日に創刊された自由民権論・君民共治を主張したわが国最初の急進的自由主義新聞・政論新聞です。

 

フランス帰りの自由主義者、華族の西園寺公望を社長とし、社主稲田政吉、 幹事松田正久、監督委員森新三郎。編集委員は中江兆民(篤介)を主筆とし、記者には柏田盛文·上冬信次·松沢求策·林正明·光妙寺三郎·桑野鋭らがいました。社は東京銀座通りの活版印刷所績文社に同居し、発行部数は当初2,000部を予定して印刷しましたが、のち1,600部に減じています。

 

この東洋自由新聞には、自由党に先立つ1880年(明治13)の自由党(準備会)を結成した一派のうち山際七司派がもともと自由新聞の名称で機関紙発行を計画したものの、結局独自発行に至ったといういきさつがあります。

 

しかし、自由民権運動の広がりを恐れた政府は、華族である西園寺が自由民権派新聞の社長をつとめることに干渉し、内勅の圧力により4月9日に社長の西園寺が辞任させられました。

 

それを憤った松沢がその背景を暴露する檄文を配布し逮捕され、またはげしい政府非難を紙上で行いましたが言論弾圧を受け、社主の稲田が手を引くと資金が欠乏し経営的にも行き詰まり、同年4月30日に第34号て休刊し、結果的に廃刊と相成りました。

 

やがて山際らの再刊運動は、自由党の機関紙「自由新聞」発行計画に合流しました。東大明治新聞雑誌文庫に全号所蔵されており、また復刻版(西田長寿編)があります。 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
3月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!