3月 出来事

3月2日 <遠山左衛門尉(とおやまさえもんのじょう)様おなりぃ~(1840年=天保11)>

2018/03/01

1840年(天保11)のこの日、映画やテレビ、歌舞伎、小説で度々取り上げられて ”遠山の金さん” として知られる遠山金四郎景元(とおやまきんしろうかげもと)は江戸北町奉行に任命されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

かつては映画やテレビで人気者だった遠山の金さん、色々な役者さんが演じましたねぇ。小生の記憶だけでも片岡千恵蔵、中村梅之助、杉良太郎、松方弘樹、松平健といった名だたる俳優が演じていました。そうした映像の中では、遊び人の金さんが、市中に出て困った人を助け悪人退治…という鉄板のストーリーでしたが、実像はそんなことは無かった様です。

 

ちょっと、遠山の金さんこと、遠山金四郎景元の実像を見てみましょう。

 

 

・まず、気づくのはとても複雑な家庭環境で育ちました。

景元の実父景晋(かげみち)は旗本永井家から入って遠山景好の養子となりましたが、養子後の1794(寛政6)に景好に実子景善(かげよし)が生まれたのです。このため景晋は、1793年(寛政5)8月に実子の景元が誕生しているにもかかわらず、婿入した養父の遠山景好に気を遣い、景善を1794(寛政6)7月無子を理由として景善を養子にしました。このため幕府への景元の誕生の届出は1794年(寛政6)年9月にされました。

景善はまた1803年(享和3)景元を養子とすることを出願し、8月晦日に許可されたが、この同じ日付で景善の実男子が早世してしまっています。このあと生まれた景寿は景元養子後の出生であるとして旗本堀田家へ養子に出されています。景元の幼名は通之進。同年8月景善の養子となり、1809年(文化6)正月金四郎と改名しました。

1824年(文政7)養父景善は部屋住のまま没したのて、1825年(文政8)正月祖父(実父)景晋の順養子(嫡孫承祖)として承認され…とまぁ32年かかって漸く実父のもとに戻って来たんですねぇ。

 

 

・それと、仕事が出来る男だったみたいです。

1825年(文政8)3月初御目見し、同年12月御小納戸役に召し出されました。それ以降とんとん拍子に出世をします。1829年(文政12)景晋隠居により家督、御膳番を経て1832年(天保3)西ノ丸御小納戸頭取格と なり大隅守受領、1835年(天保6)小普請奉行、1836年(天保7)左衛門尉、さらに1837年(天保8)作事奉行、1838年(天保9)勘定奉行を経て 1840年(天保11)の今日、北町奉行に任ぜられました。実はお父さんの景晋も勘定奉行になるほどのエリートだったんです。蛙の子は蛙だったんですねぇ。

 

 

・左遷の悲哀も味わいます

翌1841年(天保12)5月から老中水野忠邦の指導による、江戸三大改革の一つの天保の改革が始まり、江戸市政の改革は主要改革目標の一つでした。当初、南町奉行の矢部定謙(やべさだのり)とともに、老中水野忠邦と対立していましたが、水野忠邦には遠山景元を罷免できないワケがありました。

 

徳川幕府の歴代の将軍は各代で行っている三奉行の裁判上覧(公事上聴といいます)というイベントがあるのですが、1841年(天保12)の公事上聴で、将軍徳川家慶から景元は、その裁判を絶賛されたのです。いわば”将軍のお墨付き名奉行”という肩書を景元は貰ったのです。そんな名奉行をおいそれと罷免することが出来ないので、水野忠邦は腹心の鳥居忠輝(耀蔵)と図って南町奉行の矢部定謙を罷免し、後釜に鳥居耀蔵を入れたのです。

 

そうして、遠山と並んて市政改革にあたった南町奉行の鳥居耀蔵ですが、水野の方針を忠実に実行する鳥居に対し、江戸市中の実情に通じ漸進的な改革を考えていたと思われる景元は意見の合わないことも多く、このため1843年(天保14)2月町奉行を免ぜられて大目付に左遷されてしまいます。

まぁ、遠山金四郎といえども、江戸幕府のサラリーマンだったんですねぇ。 上司・同僚と折り合いが悪く左遷の憂き目です。

 

 

・力のある男は復活します

しかし天保の改革が失敗して水野・ 鳥居らが罷免されると1845年(弘化2)3月再び南町奉行に復活し、1852年(嘉永5)3月まて8年にわたり勤役し、名奉行として市井の評判を集めましたが、病気のため同月退役し、翌4月隠居、剃髪して帰雲と号しました。以後悠々自適の生活を送り、1855年(安政2)2月29九日没。享年63歳、墓は東京都豊島区巣鴨5丁目の本妙寺にあります。

 

 

・遊び人の金さん伝説

景元にはさまざまの伝説がありますが、その一つに、若年の頃、家を出て放蕩な生活を送り、 市井無頼の徒と交わり、これが江戸市中の実情に通じた名奉行の名を得た理由の一つである…というものです。

中根淑の「帰雲子伝」 には、文政ころ江戸森田座の囃方(はやしかた)中に吉村金四郎の名で出演していたとか、そのころ二代目並木五瓶と金四郎が争い、彼が腕をまくる と「断頭美人乱髪啣箋、箋端垂及肘(女の生首)」の入墨があったとかという逸話が記されています。

彼にそのような行動があったとすれば、前記のような複雑な家系関係が影響していると考えられるでしょう。複雑な過程で、子どもが非行に走った…みたいな感じでしょうか。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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