3月26日 <開陽丸、横浜に到着(1867年=慶応3)>

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1867年(慶応3)のこの日、榎本武揚らをのせた江戸幕府の新造軍艦開陽丸が無事横浜に到着しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

1853年(嘉永6)6月に浦賀沖に現れたアメリカの軍艦は黒船と呼ばれ、当時の日本に西欧諸国との文明・技術の隔たりを痛感させました。

 

この黒船来航により、幕府は国の海防力強化のために海軍創設を目指すこととなるのです。その後、長崎に海軍伝習所を開設し、その一方で諸外国から中古の軍艦を購入し海軍の体裁を整えていったのです。この海軍伝習所の1855年(安政2)の第1期生には、あの勝海舟が、1856年(安政3)の第2期生には、本日ご紹介している開陽丸に深く深く関わることになる榎本武揚が入所しています。

 

しかし、中古の軍艦というものは、すなわち諸外国で用済みとなった型落ちの軍艦であったため、国防力の向上のためには、より強力な最新鋭の主力艦が求められるようになったのでした。

 

1862年(文久2)、江戸幕府は40万ドルの大金を投じてオランダに最新鋭の蒸気軍艦を発注し、1866年(慶応2)竣工して開陽丸(かいようまる)と名付けました。

 

また、発注の同年、幕臣の榎本武揚(えのもとたけあき)ら15名をオランダに派遣して西洋海軍の技術を学ばせ、実際に新しく完成した開陽丸の日本回航にあたらせました。

 

そして、1867年(慶応3)3月26日午前10時半、榎本らをのせた船は無事横浜に到着しました。

 

開陽丸は、26門の大砲を備えた全長72.8m、排水量2590トンの威容を誇る大鑑で、幕府の旗艦として鳥羽・伏見の戦いの際には将軍徳川慶喜を大阪から江戸に帰還させました。

 

1868年(慶応4)8月には榎本武揚率いる脱走艦隊8隻の旗艦として箱館に向かいましたが、同年11月15日江差港停泊中に荒天のため座礁して沈没と相成りました。

 

海底に眠る開陽丸は、現在は埋蔵文化財に指定され、海底より引き揚げられ、発掘された遺物は約33,000点にも及んでいます。

 

また、1990年(平成2)には開陽丸は原寸大で復元され、開陽丸青少年センターという施設になっており、発掘された遺物のうち3,000点は復元された船内で展示公開されています。

 

開陽丸青少年センターのウェブサイトへのリンクをこの文章の後に貼り付けておきますね。この開陽丸のことが色々と判る楽しいサイトですよ。

開陽丸青少年センター

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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