3月10日 <都を平城に遷す(710年=和銅3)>

スポンサーリンク

710年(和銅3)のこの日、都が奈良盆地南部の藤原京から盆地北部の平城京へと遷都が行われました。

これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

6世紀の末以来、都は奈良盆地南部の飛鳥・藤原の地に営まれて来ました。藤原京は694年(持統8)に成立しましたが、文武天皇在世中の707年(慶雲4)に早くも遷都が提案され、708年(和銅元)2月には元明天皇により平城遷都の詔が出されました。

それ以降、造平城京司を中心として造営がはじまり、そして710年(和銅3)のこの日、藤原京から平城京へと遷都が行われ、新しい宮都が営まれました。のちに山背国の長岡京・平安京に遷るまで、8代の天皇の治世の間の平城京を都とした時代を奈良時代と言います。

と、書いたものの、遷都された時に平城宮に整備されていたのは、内裏と大極殿、その他の官舎くらいで、寺院や邸宅は段階的に造営されていったと考えられています。

 

この平城京は、東西4.3km、南北4.8kmの長方形で、碁盤の目状に東西南北に走る道路によって整然と街区が区画された、条坊制を備える都市でした。面積はモデルとなった唐の長安城とくらべると1/3程度でしかありませんが、それでも、それまでの藤原京の3倍だったそうです。

京は中央を南北に走る幅72mの朱雀大路によって東の左京と西の右京とに分けられており、その大路の南端には羅城門が構えられていました。北部の中央に宮城(平城宮)があり、その内には天皇の日常生活の場の内裏(だいり)、政務・儀礼の場である大極殿(だいごくでん)・朝堂院(ちょうどういん)、そして二官八省(にかんはっしょう)と呼ばれる中央官庁が位置する官庁区域が配置されていました。

<平城京>

 

京内には、官設の東西の市や貴族・官人・庶民の住宅のほか、大安寺・薬師寺・元興寺・興福寺などの、もと飛鳥地方にあった寺院が移され、平城京の人口は約10万人あったと言われています。

 

平城宮跡(奈良市)は、保存されて大規模な発掘調査が行われ、宮殿・官庁の遺構や木簡などの遺物が相次いで発見されて、古代の宮廷の日常生活や、それを支えた財政構造などが明らかにされました。また、平城宮の発掘調査では、宮城近くの五条以北には貴族たちの大規模な邸宅が並び、遠くには下級官人たちの小規模で簡素な住宅があったことが判りました。

 

この新都の造営には、701年(大宝元)に大宝律令が完成したことが密接に関連していたと考えられ、日本の古代国家が法を整備し、強力な中央集権国家を築いていったプロセスとして重要な出来事だったのです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
3月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!