3月16日 <リーフデ号、豊後に漂着(1600年=慶長5)>

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1600年(慶長5)のこの日、豊後の臼杵湾の北にある佐志生の海岸にオランダ船のリーフデ号が漂着しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

その当時、ヨーロッパでは毛織物工業が発達したイギリスと、16世紀後半にスペインから独立したオランダの2カ国が台頭し、国家の保護のもとに相次いで東インド会社を設立し、スペイン・ポルトガルが先行し優勢であったアジアに進出しようとしていました。

 

1598年(慶長3)にオランダが東方貿易開拓の為にロッテルダムから派遣した6隻の船団のなかの1隻であったリーフデ号は、三檣(さんしょう・三本マスト)を持つ300トンほどのガレオン船でした。Wikipediaにその絵があったので無断借用してきました。

<リーフデ号>

途中悪天候などで船団は離散し、いまはただ1隻のみとなってしまったリーフデ号は出発時に110人居た乗組員も、漂着時には24人となってしまい、この翌日には更に3人が亡くなった…という状態で、動ける者は数名しか居ませんでした。

 

当時、大坂に居た徳川家康は、船を堺に回航させ、船員と対面しました。この中に、その後も日本に残ったイギリス人航海長のウィリアム・アダムス(三浦按針)とオランダ人航海士ヤン・ヨーステン(耶揚子)が居ました。家康は、2人を江戸に招いて幕府の外交・貿易の顧問とし、それぞれ本国との通商を斡旋させたのです。

その結果、オランダは1609年(慶長14)に、イギリスは1613年(慶長18)に平戸に商館を開くことが許され、日本と貿易を行いました。

 

ところで、漂着したリーフデ号でしたが、大阪に回航されたのち、関東に向けて航海した際に沈没してしまいました。栃木県佐野市の竜江院(りゅうこういん)に貨狄像(かてきぞう)として祀られていた木造のエラスムス像は、このリーフデ号の元の名前がエラスムス号であったために船尾像とされています。

そのエラスムス像は、下の画像の様な木像で重要文化財に指定され、現在は東京国立博物館に寄託されています。

<エラスムス像>

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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