3月19日 <宗尊親王、鎌倉に向けて京都を出発(1252年=建長4)>

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のこの日、

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1219年(承久元)、鎌倉幕府第3代将軍源実朝は、第2代将軍源頼家の遺児の公暁(くぎょう)によって、右大臣就任の式典の途中、鶴岡八幡宮の社頭で暗殺されます。

この公暁が誰に操られていたのか? については北条氏説・三浦氏説があり定かではありませんが、結局、この公暁もまた亡き者にされてしまい、真実は闇の中に葬られてしまいました。

 

こうして鎌倉幕府を築いた、源氏の正統は3代27年で断絶しました。

 

北条義時は、親王を奉じて将軍に立てたいと願いましたが、後鳥羽上皇はこれを許しませんでした。

そこで、源頼朝の遠縁にあたる摂関家の藤原頼経が後継者として鎌倉に迎え入れられ、1226年(嘉禄2)に第4代将軍となり、これを摂家将軍(藤原将軍とも)といいます、これは、将軍とは名ばかりで、実権は執権の北条氏の手中にあったのです。

 

さて、時は下って、北条義時の曾孫の時代、幕府の制度改革を行うとともに、政務の実権を北条本家の得宗家に集中していき、執権政治は大きく発展しました。

1246年(寛元4)、時頼は北条一族の名越家の勢力を幕府から一掃しました。この名越家は、得宗家に最も近い家柄で、前将軍の藤原頼経と結託して執権の座の奪取を企てていたのです。この時、評定衆数名も名越派として処罰され、また前将軍の頼経も京都に送り返されました。

ついで1247年(宝治元)には、北条氏と並ぶ有力御家人の三浦泰村が滅ぼされました。これは、時頼が母の実家の安達氏に命じて三浦氏を挑発し、ついに合戦の末に三浦一族を自害に追い込んだのです。この出来事は宝治合戦と呼ばれています。

さらに、1252年(建長4)、北条氏討伐の陰謀に加担したとして、第5代将軍藤原頼嗣(頼経の子)が廃され、京都に送り返される出来事が起きました。

時頼は代わりの将軍を迎え入れることとなり、念願の皇族の下向を朝廷に要請しました。

そして、後嵯峨上皇の第1皇子の宗尊親王(11歳)が下向することに決定し、1252年(建長4)のこの日、京都を出発して鎌倉へと向かいました。

この宗尊親王が鎌倉幕府第6代将軍となり。以降鎌倉幕府の終焉まで、将軍職は4代にわたって親王によって受け継がれました。これを皇族(親王)将軍と呼びます。

 

こうして政敵を打倒して政局を安定させた時頼は、民衆の生活の向上をめざして、統治に全力を注ぎました。時頼が目標として掲げたスローガンは

「撫民(民衆を愛せよ)」

でした。その頃、朝廷では「徳政(徳のある政治)」を標榜しており、東西の幕府と朝廷とが手を携えて統治の実現に努力したのでした。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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