3月21日 <山県有朋、枢密院議長の辞職を申し出る(1921年=大正10)>

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1921年(大正10)のこの日、山県有朋は宮中基重大事件に関して「皇太子妃内定に変更無し」とする宮内省の決定に反対の意志を示すため、枢密院議長の辞職を申し出ました。

これは大正時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

さて、この出来事は大正時代後期に起こった皇太子(裕仁)妃決定をめぐる政治的紛争として知られている宮中基重大事件(きゅうちゅうぼうじゅうだいじけん)を発端としているので、まずこの発端から記事を書いていきましょう。

 

1919年(大正8)6月10日、宮内省から皇太子裕仁と久邇宮良子(くにのみやながこ)の婚約が発表されました。ところが、翌1920年(大正9)、久邇宮家およびその外戚の島津家に色盲の血統があることがわかり、宮内省の依嘱を受けた医学者たちも、色盲が遺伝する可能性があるという報告書を提出しました。

 

そこで、山県有朋(やまがたありとも。枢密院 議長)はじめ松方正義(まつかたまさよし。内大臣)・西園寺公望(さいおんじきんもち)の三元老、中村雄次郎宮内大臣らは協議して、久邇宮家へ婚約を自発的に辞退するよう求めました。

 

しかし、久邇宮家はこれに不同意の意向を示し、また東宮御用掛杉浦重剛らも、一旦内定した皇室の慶事を、体質上の欠陥を理由に取り消すことは道徳上重大な信義を破るものとして強く反対しました。

 

こうした対立の情報が民間に漏れ、頭山満・内田良平・北一輝・大川周明ら右翼陣営の間からも、婚約取消しに反対し、元老らの措置を不当とする叫びがおこり、盛んに怪文書が散布されるという事態になりました。特に、婚約取消しの主唱者とみなされた山県有朋は、激しい非難を浴び、一部の右翼関係者の間には、山県暗殺計画さえ立てられたということです。

 

この問題は、宮中をめぐる長州派と薩摩派の勢力争いとも絡まり、薩摩派はしきりに久邇宮家のあと押しをし、事件は政治問題にまて発展してしまいました。

 

こうして、1920年(大正9)の暮から、1921年(大正10)初頭にかけて事態は大いに紛糾し、一時は婚約変更のため枢密院に諮問する案もありましが、天皇に累を及ぼすことをおそれてこれは実行されませんでした。 結局、同年2月10日、宮内省は皇太子妃内定に変更ないことを発表するとともに、中村宮宮内省相が辞任し、事件は一段落を告げたのでした。

 

そして1921年(大正10)3月21日、枢密院議長の辞表を提出して反対の意を示しましたが取り上げられず、画策は失敗に終わりました。事件の責任をとって山県有朋は一切の官職・栄位の拝辞を申し出ました。ところが、天皇から慰留の勅書を賜わって辞意を撤回しました。その翌年山県は失意のうちにこの世を去りました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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