3月3日 <上巳の節句(桃の節句)にまつわる雑談>

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この日は、現在であれば「桃の節句」と呼ばれていますが、日本書紀にも史料が残っているほどの歴史のある行事なのです。いつもであれば、「○○年前のこの日」という書き出しで始まりますが、今日は歴史上の出来事から離れて、この「上巳の節句」の歴史や由来の気楽な話を書くことにします。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

上巳の節句は「じょうしのせっく」「じょうみのせっく」と呼ばれ、この上巳とは、3月の初めの巳(み)の日を言います。

この日、水辺に出て不祥を除くための禊(みそぎ)・祓(はらえ)を行い、宴会を催して祝すという行事が行われていました。もとは中国から渡来した行事で、我が国では、顕宗天皇元年をはじめとして「日本書紀」に記録が残っており、701年(大宝元)から3月3日の行事となっています。

上記の顕宗天皇(けんぞうてんのう)は記紀系譜上の第23代天皇で、元年は485年であるとされています。

 

中国においても、はじめは巳の日であったものが魏の時代より3日になったそうです。

中国での、この行事は穢を祓い清め、招魂の意味も含まれていたようですが、我が国の場合は招魂の意味はありません。時期的には大化の改新以降もこの日は節日となっていました。また728年(神亀5)3月以降は曲水(ごくすい)の宴の日となり、流れに盃を浮かべて、文人たちが詩をつくる宴の祝となりました。平城天皇のとき、この宴は一時停廃となりましたが、嵯峨天皇はこれを復活され、摂関時代には盛んに行われました。朝廷の公式行事としてだけでなく、「御堂関白記」には、藤原道長の私邸で曲水の宴が行われた事が記されています。

 

また、祓の道具として贖物(あがもの)と称する人形(ひとがた)が、この日には用いられます。これは、自分の罪を人形に託し、人形を肌身にすりつけ、息をふきかけ、これを水辺に棄て流すという風習は、我が国俗信仰としても古代から存在していました。「源氏物語」須磨でも、上巳の祓を須磨の海岸で源氏が行い、人形を海に流すと描写されています。現代においても、流し雛として、この風習は残っていますね。

 

桃の節句といえば、ひな祭りですが、幼女の遊びとしての人形と、この上巳の祓の人形とが結合して、のちのひな祭りの雛人形となっていきます。中世以降は、上巳の人形も次第に立派な物になり、流し雛ばかりでなく飾り雛も作られるようになったそうです。それが、江戸時代になって、平安時代の宮廷の階層をまねた雛段をつくり、そこに人形を飾り立てるひな祭りとなって行くのです。

このひな祭り、はじめは「ひひな遊び」と言い、平安時代に幼女が可愛らしい人形で遊ぶことを指していました。このひひな遊びは、3月3日とは関係なく、常に幼女の遊びであったのですが、江戸時代頃には3月3日に行う雛遊びとして定着していました。

 

雛遊びが、雛祭りに移るのは、令に規定されている3月3日の節日を、江戸幕府が五節句の一つとして制定したことが、その理由の一つと考えられており、上巳の祓の人形が保存されるようになり、1年に1度、3月3日に娘の幸福を願って飾る、という風習が盛んになり現代に至っています。

 

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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