3月4日 <杉田玄白ら、刑死者の解剖を見学(1771年=明和8)>

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1771年(明和8)のこの日、杉田玄白・中川淳庵・前野良沢は「ターヘル・アナトミア(解体新書の原典)」を見ながら、解剖を見学しました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

若狭国小浜藩に仕える貧乏な医者の杉田玄白は、1771年(明和8)の春、江戸の藩邸で、江戸に参府したオランダ商館長一行の一人が持っていたある書籍を買って貰いました。

その書籍の名前は「ターヘル・アナトミア」。

その書籍を見て、それまでの東洋医学の解剖図を「ターヘル・アナトミア」の図とが余りにも違うことに驚きを覚えた杉田玄白は、官医のあいだで刑死人の腑分けが行われていることを知り、町奉行所にその見学を申し入れました。

それから間もない同年3月3日の夜、玄白は北町奉行曲渕甲斐守景漸(まがりぶちかいのかみかげつぐ)からの使いがやってきて

「明日、千住の小塚原(現・荒川区南千住)で腑分け(解剖)があるが、お望みとあらば参られたし」

といった書状を届けたのです。手に入れたばかりの「ターヘル・アナトミア」を実際と比べて研究する絶好の機会がやってきたのです。

 

心の踊る様な喜びで、玄白は、同藩の後輩の中川淳庵(なかがわじゅんあん)や友人の前野良沢(まえのりょうたく)にも知らせ、これに出かける約束をしました。

 

1771年(明和8)のこの日は、朝から雨模様でした。雨の降るなか、山谷の茶店で3名が落ち合うと、良沢は

「これは、長崎で買い求めた本だが」

といって懐中から1冊の本を取り出しました。それは、この春に玄白が藩費で買い上げてもらい、その日も持っていた人体解剖書「ターヘル・アナトミア」でした。入手が極めて困難な書籍を互いに持っていたことで玄白も良沢も驚きましたが、更に驚いたのは、腑分けした実物と「ターヘル・アナトミア」の図とが寸分たがわぬ正確さであったことでした。

この日の腑分けは、それまでのしきたり通りに行われました。玄白らは、執刀したものが刑死人の50女の身体から取り出して見せる内臓の諸器官を、そばから覗き込むようにして見ながら、それを逐一、持ってきた「ターヘル・アナトミア」の図と照らし合わせてみただけでした。

 

感激をともにした玄白ら3人はまた、人体構造も熟知せぬまま診療投薬を行っていた事を深く恥じ、この日、この本を翻訳して、それを我が国の医学の共通の財産にしようと誓いあったのでした。その時、前野良沢49歳、杉田玄白39歳、中川淳庵33歳の春でした。

いざ、その書籍を前にしてみたものの、オランダ語の壁が3人の前に立ちはだかりました。苦心惨憺の末に完訳に漕ぎ着けたのが、作業を始めて4年めの1774年(安永3)、世に出した書籍が、あの「解体新書」でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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