1580年(天正8)閏3月のこの日、織田信長と本願寺とが和議をしました。 それは約1世紀にわたり続いていた加賀の一向一揆が終わりを迎えた日でもありました。
これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
戦国大名の中で全国統一の願望を最初にいだき、実行に移したのは尾張の織田信長でした。
近畿・東海・北陸を支配下に入れる過程で、目の上のたんこぶとなっていたのが、石山本願寺を頂点にして、全国各地にある真宗寺院や寺内町を拠点にして信長の支配に反抗した一向一揆でした。
時は1世紀ほどさかのぼります。
15世紀半ばに本願寺(大谷本願寺)の第8世門主となった蓮如を中心とする精力的な布教活動によって、本願寺の勢力は、北陸・東海・近畿地方にぐんぐん広まり、各地域ごとに強く結束し、大きな力を持つようになっていきました。その頃は、大名権力が農村の支配を強めつつあった時期でもあり、その大名権力と本願寺門徒衆が激突する事件が各地で起きました。これが一向一揆です。その代表的なものが1488年(長享2)に起こった加賀の一向一揆です。
また、織田信長の時代に戻ります。
本願寺では第11世門主の顕如(けんにょ)が1570年(元亀元)、諸国の門徒に信長と戦う事を呼びかけて挙兵し、前後11年間にも及ぶ石山戦争(石山合戦ともいう)が起こりました。顕如は各地の一向宗門徒に決起を促し、また浅井氏・朝倉氏・武田氏といった反信長勢力と同盟関係を結んで反抗したため、畿内・東海・西国にわたる内戦状態となり、和睦と戦争とが繰り返されました。
信長は1574年(天正 2)に伊勢長島の一向一揆を滅ぼし、そして翌年には越前の一向一揆を平定したのです。大坂にあった石山本願寺は、1576年(天正4)4月から籠城戦を繰り広げますが、織田軍の石山本願寺攻めを受け、次第に不利な情勢になっていきました。
そして、1580年(天正 8)閏3月の今日、織田信長は前関白近衛前久(このえさきひさ)を仲介として正親町天皇(おおぎまちてんのう)の勅命の形式で、本願寺と和議を結びました。本願寺の門主顕如(けんにょ)は、この時石山から退去させられました。
約1世紀にわたり続いていた加賀の一向一揆が解体したのもこの時です。
こうして、信長は全国統一の野望のステージを、またひとつクリアしたのでした。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<日本初の「ミス日本」(1908年=明治41)>
今日はここまでです。
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