3月5日 <日本初の「ミス日本」(1908年=明治41)>

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1908年(明治41)のこの日、アメリカのヘラルド・トリビューン紙の依頼による「全国美人写真審査」の結果を時事新報が発表し、小倉市長の令嬢で学習院女子部在学中の末弘ヒロ子(16歳)が見事1位に輝きました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

3月5日は「ミス・コンテストの日」です。その由来は、日本で全国規模の、しかも一般女性を対象としたミス・コンテストの時事新報主催「全国美人写真審査」の結果がこの日に紙上掲載されたことにあります。

この時事新報主催「全国美人写真審査」は、シカゴ・トリビューン紙主催の「世界美人コンクール」日本予選だったのですよ。

で、この「全国美人写真審査」では、1907年(明治40)に時事新報が全国22の新聞社と共に1次審査を実施し、7,000人の応募者から、各地域5名ずつ、計215名を選抜したものを、翌1908年(明治41)2月に時事新報社にて実施された2次審査により、全国美人Best12を決定しました。

 

その時の栄えある1位は福岡県小倉市(現・北九州市)の末弘ヒロ子(16歳)で、日本のミスコン優勝者第一号という事になりますね。写真は例の如くWikipediaからの無断の借り物です。写真またはその下のリンクからWikipediaの大きな写真が見られます。

なかなかの美人さんですよ。

<末弘ヒロ子女史>

 

そして2位が宮城県仙台市の金田ケン子(19歳)

 

3位は栃木県宇都宮市の土屋ノブ子(19歳)

 

 

この末弘ヒロ子(すえひろ ひろこ)女史は、福岡県小倉市長・末弘直方の令嬢で、このコンクールの時点では学習院女子部在学中でした。学習院側はヒロ子がこのコンクールに参加したことを知ると、「校風にそわない」としてヒロ子を退学処分としました。

しかし、その時の学習院院長の乃木希典(陸軍大将)は、写真が趣味のヒロ子の義兄が勝手に応募した事実を知って、のちに貴族院議員となる侯爵の野津鎮之助との結婚をとりもちました。

 

余談ですが、この末弘ヒロ子女史の姉の末弘直子女史は、ジャズピアニスト山下洋輔の母親なのです。すなわち、山下洋輔さんからみれば、この末弘ヒロ子女史は叔母さんという関係なんですね。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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