3月6日 <坂上田村麻呂、斯波城築城を命ぜられる(803年=延暦22)>

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803年(延暦22)のこの日、坂上田村麻呂は胆沢城(いさわじょう。岩手県奥州市)からさらに奥羽の奥深くへの進出の為、岩手県盛岡辺りに斯波城(しばじょう。志波城とも)を築く事を命ぜられました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

桓武天皇は788年(延暦7)、紀古佐美(きのこさみ)を征東大使とし、翌789年(延暦8)、大軍を送り込んで北上川中流の胆沢(いさわ)地方の蝦夷勢力を制圧しようとしましたが、蝦夷の族長阿弖流為(あてるい)の活躍もあり、征東軍は大敗を喫しました。

 

テラヤバス

 

という事になったのか、次は準備をしっかりして794年(延暦13)に大伴弟麻呂(おおとものおとまろ)を征夷大使(征夷大将軍)、坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)を副使として大軍を送り込み、一定の成果を得ました。

 

蝦夷の攻撃に全力を尽くしたことから桓武天皇の信任もとても厚かった坂上田村麻呂は、797年(延暦16)に2代目の征夷大将軍に任ぜられ、801年(延暦20)に蝦夷征討を行い、翌802年(延暦21)には胆沢城(岩手県奥州市)を築いて、阿弖流為を帰順させ胆沢地方を平定したのです。

 

さらに奥羽の奥への進出のため、田村麻呂は、翌803年(延暦22)のこの日、造斯波城使として胆沢城北方の斯波村に斯波城(岩手県盛岡辺り)を築くことを命じられました。

 

作られた城柵は、外郭施設が東西928m、南北840mの築地の規模を持ち、東北地方の古代城柵としては最大級のものでした。内郭は150m四方で正殿・東西脇殿など14棟の掘立柱建物跡が配置されている政庁が置かれていました。その内郭の周囲に官衙域、外郭内側1町(約108m)幅で兵舎や工房としての機能を持つ竪穴住居群が1,200~2,000棟ほど配置されていたと考えられています。

この城柵が出来た結果、東北は北上川の上流地域まで、日本海側でも米代川流域まで律令国家の支配権ということになったのです。

 

この斯波城は、しばしば雫石川氾濫による水害に遭うという理由で、811年(弘仁2)に移転が申請され、その役目を終えます。現在でも、斯波城の北側には、水害の影響で形成されたと思われる段差が残っています。

そして、徳丹城(とくたんじょう)が築かれたのち、その名が史料に出てくることはありませんでした。

 

この斯波城は、1976年〜77年(昭和51〜52)に、東北自動車道建設にともなう岩手県教育委員会の発掘調査中に築地塀や大溝、竪穴式住居跡が発見されました。そして、その後の範囲確認調査の成果を受け、1984年に「志波城跡」として国の史跡に指定されました。

1991年(平成3)から、盛岡市によって、外郭南門(がいかくなんもん)築地塀(ついじべい)が古代の技術にならって復元されており、その地は「志波城古代公園」として整備されています。現在では、上記の政庁の南・西・東それぞれの門、官衙建物などが復元され、官衙建物は解説ビデオなどを鑑賞できる展示室になっています。

 

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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