1951年(昭和26)のこの日、第55回ボストン・マラソンで、19歳の田中茂樹が優勝しました。田中は広島県出身だったことで「原爆ボーイ」と呼ばれ注目を浴びました。
これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
ボストン・マラソンは米国マサチューセッツ州ボストンで開催されるマラソン大会です。
アメリカ独立戦争が始まった日、4月19日は米国では「愛国者の日」とされており、それを記念して1897年4月19日に第一回が開催された伝統あるボストン・マラソンは、今でも毎年4月第三月曜日の「愛国者の日」に開催されています。
今年の大会では、男子は埼玉県庁に勤める川内優輝が2時間15分58秒で初優勝したのは記憶に新しいところですが、今日の記事は。1951年(昭和26)の大会の話です。
1951年(昭和26)といえば、第2次世界大戦で日本が敗戦してからまだ6年、その3年前の1948年(昭和23)に行われたオリンピックロンドン大会には日本の選手団は参加が認められませんでした。
その年、山口で行われた海外派遣選手の予選会で2時間28分16秒という戦後の世界最高記録をマークした田中茂樹は、日本から初めて参加するボストンマラソン代表の4人のうちの1人に選ばれました。この年のボストン・マラソンは、日本が戦後初めて参加するマラソンの国際試合でもありました。
そして迎えた1951年(昭和26)のこの日の第55回ボストン・マラソンで、田中茂樹は2時間27分45秒で優勝しました。これは当時の歴代3位の好記録でした。また、同大会に参加した他の日本選手、小柳舜治が5位、内川義高が8位、拝郷弘美が9位と全員が初出場にもかかわらず大健闘でした。
ところで、この田中選手、ボストンで一騒動あり、大会前から評判になっていました。というのも、ボストンに到着したところ、国防総省の関係者から連行され尋問を受けたのです。そこで、多くの被爆写真を見せられ「これは本当なのか?」と質問されたそうです。そして、翌日のアメリカの新聞は田中を
「アトムボーイ(原爆ボーイ)」
と呼び、
「全滅したと思われた広島から選手が出場する」
と大きく報じました。さらに、田中が優勝すると今度は
「19歳の原爆ボーイに栄冠」
「敗戦国の日本が戦勝国に乗り込んでの勝利」
とビッグ・ニュースとして報じました。
この優勝は、我が国の陸上界に希望をもたらしただけでなく、第2次世界大戦での敗戦から立ち直れないでいた日本人を力強く勇気づけたのでした。
1952年には、日本も戦後初めて復帰できるオリンピックヘルシンキ大会が予定されており、田中も期待を掛けられましたが、膝の故障でオリンピック出場は果たせませんでした。
このボストン・マラソンでは過去に9回日本人(8人)が優勝しています。以下に年代順にご紹介しましょう。
- 1951年第55回大会:田中茂樹 2:27’45”
- 1953年第57回大会:山田敬蔵 2:18’51”
- 1955年第59回大会:浜村秀雄 2:18’22”
- 1965年第69回大会:重松森雄 2:16’33”
- 1966年第70回大会:君原健二 2:17’11”
- 1969年第73回大会:采谷義秋 2:13’49”
- 1981年第85回大会:瀬古利彦 2:09’26”
- 1987年第91回大会:瀬古利彦 2:11’50”
- 2018年第122回大会:川内優輝 2:15’58”
Wikipediaに面白い逸話が2つ書かれていたので、以下にご紹介申し上げますね。
- ボストンマラソンの大会本部が出している公式歴代優勝者名簿の欄には「Hioroshima Japan」と田中一人だけが国名以外に出身地まで記載されている。
- この時代まで日本のマラソン選手は、指又の有る足袋を履いて走った。田中もオニツカタイガー(現在のアシックス)製の地下足袋型マラソンシューズでボストンマラソンを優勝した。ゴール直後、外国人新聞記者達は血相を変えて 「早く靴を脱げ」と田中に迫った。理由も分からず靴を脱ぐと記者たちは、安堵の表情をした。田中によると、「日本人の足の指は2本しかない」と疑われていたためだったという。
(Wikipedia「田中茂樹」から引用〉
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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