4月2日 <高野長英、宇和島に逃亡(1848年=嘉永元)>

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1848年(嘉永元)のこの日、伊東瑞渓(いとうずいけい)と名乗る蘭学者が伊予の宇和島に到着しました。この瑞渓なる人物の正体は蘭学者の高野長英でした。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1839年(天保10)5月、蛮社の獄がおこると、高野長英はこれに連座して幕政批判の罪で永牢(無期禁錮)の判決を受けました。

かれは獄中で郷党にあてて「蛮社遭厄小記」を著し、自己の無実を訴えるとともに、彼を陥れた敵側の糾弾を行いました。そして1844年(弘化元)6月に牢内雑役夫の非人栄蔵に金を与えて放火させ、切放しを利用して脱獄逃亡したのでした。

そのため、放火脱獄犯として全国に指名手配されますが、硝酸で顔を焼いて人相を変え、一旦江戸から脱出したのち、まもなく再潜入し、同志の田原藩医鈴木春山の庇護のもと江戸市中に潜伏し、「兵制全書」や「三兵答古知機(さんぺいたくきち)」を翻訳しましたが、その庇護者の春山が急死してしまいます。

 

その後、鳴滝塾時代の同門・二宮敬作の紹介で伊予宇和島藩主伊達宗城の知遇を得て、1848年(嘉永元)のこの日の朝、伊東瑞渓と名前を変えて伊予の宇和島に着きました。そして、宇和島藩の庇護のもと、「砲家必読」などの洋書の翻訳に当たることになりました。また宇和島藩の兵備の洋式化に従事し、このとき彼が築いた久良砲台(愛南町久良)は、当時としては最高の技術を結集したものとされるそうです。

 

しかし、幕府の探索は宇和島にも及びそうになったため、翌1849年(嘉永2)正月に同地を去って逃亡の旅に出なくてはならなくなり、同年8月に再び江戸に潜入しました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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