1792年(寛政4)のこの日、大爆発した雲仙普賢岳が山崩れを併発し、島原藩に大被害をもたらし、その対岸の熊本藩領でも津波で大変な被害が起きました。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
その前年の1791年(寛政3)末から、肥前国島原(現在の長崎県)の雲仙普賢岳では火山性の地震が起こって居ました。
そして年明けた1792年(寛政4)正月18日には、普賢岳で小噴火が起こし、溶岩流が長さ2kmの穴迫谷を埋めてしまったそうです。
その1ヶ月半後の同年3月1日からは、火山性の群発地震が発生、普賢岳は遂に火柱を上げて噴火を起こし、空中に吹き上げられた噴石は雨あられの如く地上に降り注ぎました。
1ヶ月も続いた群発地震が少し収まりかけたかな…と見えた1792年(寛政4)4月1日の夜8時頃、2度の大きな地震が起こり、眉山の南側が崩壊し、その土砂が有明海に一気に突入したのです。この時の崩壊土砂量は3.25億㎥と考えられています。この眉山崩壊の原因は、眉山の火山活動に起因するのか。雲仙岳の火山活動による地震によって誘発されたかは、判明していません。
しかし、被害はこれだけでは収まりませんでした。
大量の土砂が高速で有明海になだれこんだその衝撃で、大津波が発生したのです。島原側に高さ6〜9m、肥後側に高さ4〜5mの津波の津波が押し寄せました。
まだまだ被害は止まりません。
肥後の海岸に到達した津波は、今度は引き波となり再び島原を襲いました。
この有史以来日本最大の火山災害となったこの出来事は、眉山が崩壊した肥前国島原側の災害は「島原大変」と、それに起因する津波で起こった肥後側の災害は「肥後迷惑」と呼ばれています。その2つをセットにして島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)と呼ぶのです。
この災害によって命を落とされた方は島原で10,000名、肥後で5,000名とされています。
この時に有明海に流れ込んだ土砂は、島原市前面の浅海に岩礁群として残っており、225年前の悲惨な大災害の名残を我々に見せてくれます。
この時噴火した雲仙普賢岳は、1990年(平成2)にも噴火しており、この時は翌1991年(平成3)6月3日に発生した火砕流によって43名の方が亡くなっています。
ちなみに、1792年(寛政4)正月18日の噴火の際は火砕流はなかった、とのことです。
2.他の年、この日の記事
他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2018年記事:<荻生徂徠、将軍吉宗に謁見(1727年=亨保12)>
今日はここまでです。
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