4月1日 <荻生徂徠、将軍吉宗に謁見(1727年=亨保12)>

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1727年(亨保12)のこの日、荻生徂徠(おぎゅうそらい)は初めて江戸幕府第8代将軍徳川吉宗に謁見しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「これ、豆腐屋、冷奴を一丁…」

男は、11月半ばの霜が降りるような寒い朝だというのにその冷奴をガツガツと食べた。

「美味い! 世の中に豆腐ほど美味いものはない! 第一値が安い! それに皮を剥く世話もなければ骨が無い。」

なぁんて話では無くってですね…

 

 

この豆腐をガツガツと食べた貧しい学者が、本日の記事の主人公荻生徂徠です。

 

江戸時代中期朱子学・陽明学のような宋代・明代に創始された儒学に飽き足らず、孔子・孟子の古典に立ち帰ろうとする学派、日本で創始された古学と呼ばれる儒学が生まれました。

兵学者でもある山鹿素行(やまがそこう)は、「聖教要録(せいきょうようろく)」を著して朱子学を批判し、古代の聖賢(せいけん)に立ち帰ろう、と唱えました。この主張は、幕府に忌避(きひ)され、素行は赤穂に流されてしまいました。

同じころ、京都の堀川に私塾古義堂(こぎどう)を開いた伊藤仁斎〈いとうじんさい)は「論語」「孟子」に依拠して、経験的知識を重視しました。仁斎の子の東涯(とうがい)も父を引き継ぎ、その堀川学派には多くの門下生が集まりました。

 

本日の主人公、荻生徂徠は、治国(ちこく)=政治を重視して、礼楽(れいがく)・制度をととのえることの重要性を説きました。

徂徠は、1696年(元禄9)、側用人柳沢吉保(やなぎさわよしやす)に使え、第5代将軍徳川綱吉にもたびたび進講し、一世を風靡する儒学者となりましたが、1709年(宝永6)、綱吉の死去にともなう吉保の失脚にあって柳沢邸を出て日本橋茅場町に私塾・蘐園塾(けんえんじゅく)を開きました。そうして、徂徠は徂徠派というひとつの学派(蘐園学派)を成しました。この徂徠派は、上記の堀川学派や新井白石とはライバル関係にあったのでした。

1721年(亨保6)、「六論衍義(りくゆえんぎ)」に訓点を付けたことから、1722年(亨保7)以降、第8代将軍徳川吉宗に評価され、ある月には33回も側衆有馬氏倫(ありまうじのり)宅に出頭して政治についての意見を求められるほどになりました。

 

そして、1727年(亨保12)のこの日、徂徠ははじめて吉宗に謁見しました。

徂徠の有名な政治論「政談」は、このころにまとめられて献上されたものです。

 

ところで、解説の冒頭に書いた豆腐の話は、徂徠豆腐という落語の一節です。以下にYouTubeに登録されている志の輔師匠の「徂徠豆腐」の音声がありましたので、以下に貼り付けておきますね。良い話ですよ。

<立川志の輔「徂徠豆腐」>

 

2.他の年、この日の記事

他の年のこの日には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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