4月11日 <鴨川で僧が入水往生する(1152年=仁平2)>

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1152年(仁平2)のこの日、京都の鴨川で人だかりのなか、僧侶が入水往生を遂げました。

これは平安時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

平安時代になると、信仰生活は、熱心な修行だけでは安心できず、身体を虐めての難行苦行によって仏の救いを求めるようになっていました。

 

それが高じると、入水や焼身といった手段で自らの命を断つ事によって極楽往生を遂げようとする者も出てきます。実際に、平安時代の中頃になると、極楽往生を信じながら入水や焼身あおする求道者(ぐどうしゃ)が急送しているそうです。

 

藤原通憲(ふじわらのみちのり・信西のこと)の「本朝世紀(ほんちょうせいき)」にも、京都の鴨川で入水往生した僧のことが記録されています。

 

1152年(仁平2)4月11日の記事に、

この日、或る僧、鴨川に入水して死去す、観る者堵(かき)のごとし

現代語:黒山のような人だかりのなかで、一人の僧が(極楽往生を願って)鴨川に入水自殺した

とあります。堵(かき)は人垣の「垣」ですね。黒山のような人、ということは京都の人々の間では入水往生する、ということは話題の中心に昇れたことだったのかもしれません。

 

こんな風に、本懐を遂げるのばかりかと思うと、そうでない話もあります。

 

「宇治拾遺物語(うじしゅういものがたり)」には「空入水(そらじゅすい)したる僧の事」というナンチャッテ入水の話が残っています。

 

この僧は、30歳過ぎで、まず入水の準備として法華経を百か日読誦(どくじゅ)して六根(ろっこん)の罪障を懺悔(ざんげ)する百日懺法(ひゃくにちせんぽう)を行うのです。その時点で、多くの人々が見物におしかけ、祇陀林寺(ぎだりんじ)には人がひしめき合ったのでした。

そして、いよいよ入水の当日になると、僧は紙の衣に袈裟を掛けて桂川に向かいます。入水往生の有り難い僧を一目拝もうと集まった人々が道を清めるために霰(あられ)の様に散米をするもので、その僧は、

「打ち米が目鼻に入って堪え難い。志があるのなら、米は紙袋などへ入れて、私の居たところへ送れ」

などと言うのでした(当人が死んだ後の事を心配するなんて…というおかしなことにw)。

さて、川に着くと、そこには川原の石より多くの人が集まっていました。そこでその僧がいよいよ入るかと思えば、まだ午後4時頃だから、往生にはまだ早い。もう少し日暮れてから…などと言って、入水を遅らせます。

見ている人の中には「往生に刻限を定めるなんて変くね?」と思う人が居ました。

そうこうするうちに、最後にふんどし一丁で水に飛び込んだものの、結局未遂に終わり、助けてくれた人に僧は手を擦り合わせて「助かりました、このご恩はいずれ極楽に行ってからお返し申し上げます」と言ってすたこら岸に上がってしまったので、群衆や子供らから投げつけられた川原の石で頭をカチ割られたのです。

その僧であるかどうかは判りませんが、誰かのもとへ瓜を送ってきた書面の上書きに「前(さき)の入水の上人」と書いてあったとか…

 

 

こんな風に、入水往生するのも公開自殺みたいなもので楽ではなく、またそれを楽しみに見る群衆もいた、という当時の風物が偲ばれる話ですねぇ。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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