4月17日 <「三世一身法」制定(723年=養老7)>

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723年(養老7)のこの日、口分田として公民に班給すべき耕地が不足している状況を打開するために「三世一身法」が制定されました。

これは奈良時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

まず、当時の仕組みをみてみましょう。

政府は、全国の人民を戸籍(こせき)・計帳(けいちょう)に登録することによって、律令体制による支配を末端にまで浸透させようとしました。

戸籍は戸(こ)を単位を単位として人民をすべて詳細に登録したもので、6年ごとにつくられ、戸を単位とした課役、良賤身分の掌握、氏姓の確定、兵士の徴発、班田収授などの基本台帳とされました。

計帳は、調(ちょう)・庸〈よう)を徴収するための基本台帳として全国の課口数の推移を把握するためのもので、何と毎年作り替えられました。

 

この戸籍に登録された全ての公民には、有位者と無位者、良賤の身分、男女の性といったものに関わらず、その全てに対して既墾地(きこんち)が口分田として班給されました。

  • 良民男性が2段、良民女性が1と1/3段(男性の2/3)
  • 官戸(かんこ)・公奴婢(くぬひ)は良民男女と同じ
  • 家人(けにん)・私奴婢は良民男女の1/3

といったように男女、良賤の別によって班給される土地の面積が異なっていました。口分田の収授は、「六年一班〈ろくねんいっぱん)」と呼ばれるように、6年に1回作られる戸籍において、受田資格を得た者に口分田を配給し、その間に死亡した者の口分田を収公(しゅうこう)する、というものでした。

これが、班田収授法のあらましです。

 

しかし、人口増加に対する口分田が不足していたこともあり、政府は積極的に耕作地の拡大をはかり、722年(養老6)には百万町歩の開墾計画を立てました。この政策は、農民に食料・道具を支給し、10日間開墾に従事させて良田を開こうとしたもので、陸奥を対象としたとする説もありますが、いずれにせよ百万町歩という膨大な土地の開墾計画は、机上の空論に終わりました。

 

そして、続く723年(養老7)のこの日、三世一身法〈さんぜいっしんのほう)が出されました。

この法は、新しく溜池(ためいけ)や用水溝などの灌漑施設を設けて未開の地を開墾した場合は三世(子・孫・曾孫)にわたりその私有を認め、また旧来の灌漑施設を利用して開墾した、或いは荒廃した水田を再墾した場合は本人一代の間私有を認めるというもので、民間の開墾により耕地の拡大を図るものでした。

しかし、20年ほど経過して最初の「一身」の収公期限の前後になると、墾田の荒廃が目立つようになっていきました。まぁ、もう自分のものではなくなる…と思うと一所懸命には耕しませんものねぇ。

その現状を受けて、743年(天平15)に墾田永年私財法(こんでんえいねんしざいほう)が出されますが、それについてはまた別稿でお話しましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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