4月20日 <田中義一内閣が発足(1927年=昭和2)>

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1927年(昭和2)のこの日、立憲政友会総裁の田中義一が第26代内閣総理大臣に任命され、田中義一内閣が発足しました。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1924年(大正13)6月の加藤高明内閣の成立から、1932年(昭和7)5月の犬養内閣の崩壊にいたる8年ほどの間、政党政治は「憲政の常道」となり、衆議院に勢力を占める政党の党首が内閣を組織するという慣習が出来上がりました。

1925年(大正14)に立憲政友会は、退役した陸軍長老で長州閥の系統につながる田中義一を、高橋是清にかわって新総裁に迎えるとともに、革新倶楽部と合同しました。

一方の憲政会は加藤高明の病死後、大蔵官僚出身の政治家若槻礼次郎が総裁となり、1927年6月に政友本党と合同して立憲民政党を結成し、立憲政友会とともに2大政党として交代で政権を担当しました。

 

こうした流れのなかで、1927年(昭和2)に第一次若槻礼次郎憲政会内閣が、金融恐慌に際して台湾銀行の救済のための緊急勅令案を枢密院に否決されたのを受け総辞職した後に、同年のこの日、立憲政友会総裁の田中義一が第26代内閣総理大臣に任命され、田中義一内閣が発足しました。

 

この田中義一内閣、組閣後ただちに支払猶予令によって金融恐慌を収拾しました。その後、産業立国・地方分権を掲げて第1回普通選挙に臨みましたが過半数を制することは出来ませんでした。

政党政治とは言うものの、総選挙によって衆議院で多数を占めた野党が、敗れた与党にかわって内閣を組閣する…という形で政権交代が行われるワケではなく、田中義一内閣はその後も政権運営を続け、1929年(昭和4)7月に、張作霖爆殺事件の処理に関する天皇の叱責によって総辞職するまで内閣を維持したのでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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