4月23日 <井伊直弼、大老に就任(1858年=安政5)>

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1858年(安政5)のこの日、近江彦根藩の第15代藩主 井伊直弼(いいなおすけ)は大老に任命されました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今年の大河ドラマの主人公、井伊直虎が後見を務めた井伊直政が初代藩主であった近江国彦根藩35万石の井伊氏は、直政以降も徳川家譜代の重臣で大老(たいろう)に任じられる家柄でした。

 

大老は、江戸幕府の職制で、将軍の補佐役で常置ではなく臨時に老中の上に置かれた最高職です。幕府だけでなく大名家にも置かれる場合がありました。この大老職に就けるのは井伊・酒井(2家あり)・土井・堀田の5家に限定されていました。

 

1858年(安政5)4月23日、近江彦根藩の第15代藩主 井伊直弼は江戸幕府第13代将軍徳川家定から大老に任命されました。

 

この年は色々な大問題が山積していました。

 

まず、アメリカとの通商条約締結の問題でした。

 

1858年(安政5)、アロー戦争(第2次アヘン戦争)で清國がイギリス・フランスに敗北して天津条約を結んだことが伝えられると、アメリカの初代駐日総領事として下田に駐在していたハリスは、これを利用してイギリス・フランスの脅威を説き、早く通商条約を締結するように幕府に迫りました。井伊直弼は勅許が得られないまま、同年6月に、日米修好通商条約(にちべいしゅうこうつうしょうじょうやく)に調印しました。

しかし、この調印は反対派から違勅調印であるとして、幕府への激しい避難と攻撃とを生みました。

 

次の問題は、病弱で嫡子が居なかった13代将軍の家定の跡継ぎを誰にするかという将軍継嗣問題(しょうぐんけいしもんだい)でした。

 

越前藩主松平慶永(まつだいらよしなが)・薩摩藩主島津斉彬(しまづなりあきら)・土佐藩主山内豊信(やまうちとよしげ)ら雄藩の藩主は「年長・英明」な将軍の擁立を掲げて徳川斉昭の子で一橋家の徳川慶喜(とくがわよしのぶ)を推し、譜代大名らは幼年ではあるが血統の近い紀伊藩主徳川慶福(とくがわよしとみ。後の徳川家茂)を推して対立していました。

慶喜を推す一橋派は、雄藩の幕政への関与を強めて幕府と雄藩とが協力して難局にあたろうとし、慶福を推す南紀派は、幕府の専制政治を維持しようとし、朝廷も巻き込んで激しく争いました。

直弼は、一橋派を押し切って慶福を将軍の継嗣に定めたのです。

 

このように、無理矢理決着をつけたために、政局はかえって混迷の度合いを深め、同年9月には安政の大獄を断行した直弼でしたが、これがもとで1860年(安政7)3月3日には桜田門外で水戸浪士らに暗殺されてしまうのでした。

 

この安政の大獄や桜田門外の変については、またの機会にしましょう。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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