4月23日 <足利尊氏、五山の制を定める(1342年=康永元・興国3)>

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1342年(康永元・興国3)のこの日、足利尊氏は南宋の制度にならい寺の檀越(だんおつ)・規模などを考慮して、五山の制とよぶ禅寺の格付けを行いました。

これは室町時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

鎌倉時代、武家社会の上層に広まった仏教に臨済宗があります。なかでも1293年(永仁元)に京都建仁寺の無穏円範(むいんえんぱん)に参見し夢窓疎石を名乗った僧は、その後ぐんぐん頭角を表し、1325年(正中2)に後醍醐天皇の命で南禅寺に、1329年(元徳元)には鎌倉幕府執権北条高時に請われて円覚寺に入寺し、更にはあ1336年(建武3・延元元)には足利尊氏が弟子の礼を取り、臨済宗の黄金期を築きました。

夢窓疎石は足利尊氏・直義兄弟に勧めて元弘の変以来の戦死者の霊を弔うため、国ごとに安国寺・利生塔と呼ばれる一寺一塔を建立させ、また後醍醐天皇を追善するため尊氏らの援助を受けて天龍寺を造影し、自らその開山をなりました。

 

尊氏・直義は天龍寺を開いた際に、寺格を定める必要を感じ、これに対して北朝は1341年(暦応4)に院宣を出して尊氏に五山の決定を一任しました。そして、1342年(康永元・興国3)のこの日、南宋の制度にならい禅宗寺院の格付けを行いました。これを五山の制と呼びます。

 

我が国における五山の制は、鎌倉時代より始められましたが、足利尊氏は鎌倉中心の五山を改め、以下の様な選定をしました。

五山(1342年(康永元・興国3))

位次 寺名(開山・開基)
第1位 南禅寺(無関普門・亀山上皇)、建長寺(蘭渓道隆・北条時頼)
第2位 天龍寺(夢窓疎石・足利尊氏)、円覚寺(無学祖元・北条時宗)
第3位 寿福寺(明庵栄西・北条政子)
第4位 建仁寺(明庵栄西・源頼家)
第5位 東福寺(円爾弁円・九条道家)

 

 

その後、1358年(延文3・正平13)に室町幕府第2代将軍足利義詮がこれを改訂して第5位に浄智寺、万寿寺、浄妙寺を追加し、京都と鎌倉からそれぞれ5寺ずつが五山に選定されました。

五山(1358年(延文3・正平13))

位次 寺名(開山・開基)
第1位 南禅寺(無関普門・亀山上皇)、建長寺(蘭渓道隆・北条時頼)
第2位 天龍寺(夢窓疎石・足利尊氏)、円覚寺(無学祖元・北条時宗)
第3位 寿福寺(明庵栄西・北条政子)
第4位 建仁寺(明庵栄西・源頼家)
第5位 東福寺(円爾弁円・九条道家)、浄智寺(大休正念、兀庵普寧、南洲宏海・北条師時)、万寿寺(十地覚空、東山湛照・郁芳門院)、浄妙寺 (退耕行勇・足利義兼)

 

 

その後、室町幕府第3代将軍足利義満が、義満が足利将軍家の菩提寺として相国寺を建立すると、1386年(至徳3・元中3)に五山の選定を大幅に変更しました。

変更点としては、南禅寺を「五山の上」として全ての禅林の最高位とする代わりに相国寺を「五山」に入れ、更に五山を京都五山と鎌倉五山に分割したのでした。これが、それ以降の格付けの基準となりました。

五山(1386年(至徳3・元中3))

位次 京都五山、寺名(開山・開基) 鎌倉五山、寺名(開山・開基)
南禅寺(無関普門・亀山上皇)
第1位 天龍寺(夢窓疎石・足利尊氏) 建長寺(蘭渓道隆・北条時頼)
第2位 相国寺(夢窓疎石・足利義満) 円覚寺(無学祖元・北条時宗)
第3位 建仁寺(明庵栄西・源頼家) 寿福寺(明庵栄西・北条政子)
第4位 東福寺(円爾弁円・九条道家) 浄智寺(大休正念、兀庵普寧、南洲宏海・北条師時)
第5位 万寿寺(十地覚空、東山湛照・郁芳門院) 浄妙寺 (退耕行勇・足利義兼)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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