4月25日 <天下の総代官、大久保長安が駿府で他界(1613年=慶長18)>

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1613年(慶長18)のこの日、「天下の総代官」と称された老中の大久保長安が駿府で中風のために駿府で他界しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

大久保長安は、日本史の教科書に出てくることはありませんが、江戸時代初期の老中を務めたほどの有力な武士でした。

武田氏お抱えの猿楽師であった大蔵太夫十郎信安の次男に生まれ、長安自身は猿楽師ではなく武田氏に家臣(蔵前衆)として仕え、税務や鉱山開発などに従事したそうです。

ところが、1582年(天正10)に主家武田氏は、織田信長・徳川家康連合軍の侵攻によって滅亡してしまいます。

 

武田氏滅亡後、長安は徳川家康に仕えます。最初は、大久保忠隣(おおくぼただちか)の与力に任じられ、その際に忠隣から大久保姓を名字を与えられ、大久保を名乗る様になりました。

1590年(天正18)の小田原征伐を終えた家康が関東に入国した後は、

  • 武蔵八王子陣屋で関東郡代や八王子千人同心を統轄
  • 伊奈忠次の下で各地の検地を行い、石見縄・石見検地と称された
  • 一里塚や伝馬宿の設置による交通制度の確立
  • 江戸、駿府、名古屋の築城工事への参与
  • 石見、伊豆両銀山及び佐渡金山の採掘に成功
  • 木曾の林業開発に成功
  • 美濃、大和の国奉行を担当

といった風にその活動は八面六臂と言ってもよいほど財政・交通・産業の多分野にわたり、1603年(慶長8)12月には遂に年寄(後の老中)に列せられたのです。

また、本人のそうした才覚や努力だけでなく、7人の息子を石川康長や池田輝政の娘に嫁がせ、さらに家康の六男・松平忠輝と伊達政宗の長女・五郎八姫の結婚交渉を取り持ち、忠輝の岳父が政宗となったことから政宗とも親密な関係を築いたそうです。

そうした、実務能力や権勢、人脈などから「天下の総代官」と称された長安でしたが、1613年(慶長18)のこの日、前年に患った中風が悪化して駿府で他界しました。享年69歳でした。

 

長安の葬儀の準備が進められましたが、数日後、幕府は突如としてその中止を命じ、生前にポルトガルと通じて幕府転覆の陰謀を企て、また金銀を横領したとして遺子7人を死罪とし、縁戚関係の諸大名や手代らにも処分を行いました。これが大久保長安事件と呼ばれる出来事です。

 

この亡くなった後の出来事の真相は明らかになっていませんが、長安の抜群の政治力と莫大な資産を恐れた家康が、その断絶を図ったためと言われています。また、さしたる軍功もない長安が家康の側近にあって権勢を振るい、そのうえ莫大な資産と領主的権力とを兼備したことに対する、強い反対勢力による力が働いた結果と見る説もあります。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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