4月30日 <源義経、衣川の戦いで命を落とす(1189年=文治5)>

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1189年(文治5)のこの日、源義経は、兄の頼朝から逃れて身を寄せていた奥州の藤原泰衡の軍勢500騎に衣川の館を襲われ、自害を遂げました。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1185年(文治元)3月24日、壇ノ浦の戦いで平氏が滅びたのですが、頼朝の勢力増大を恐れた後白河法皇は、軍事に優れた義経を重く用い、頼朝の対抗者しようと試み、勝手に任官してしまうのでした。頼朝は法皇の動向を警戒し、そしてまた内挙を得ずに朝廷から任官を受けたその行為に激怒しました。

そして、凱旋しようとする義経を鎌倉には入れず、京都に追い返してしまいます。

法皇は義経と叔父の行家に九州・四国の武士の指揮権を与え、頼朝追討の院宣を下しましたが、武士たちは頼朝を重んじて法皇の命令は聞かず、哀れ義経は孤立し、ついに京都を見捨てて、かつての縁故のある奥州の藤原秀衡のもとをたよるしかありませんでした。

義経が、何時、どんな経路で、どうやって奥州に逃げ延びたかは記録がなく謎に包まれていますが、おそらくは1187年(文治3)の春の雪解けをまって北陸路を抜け奥州に下ったであろう、と考えられています。

その過程で、にせ山伏の義経主従一行が、加賀国の安宅の関で、地元の豪族富樫介(とがしのすけ)に見咎められたものの、武蔵坊弁慶の才覚と機転と、そして富樫の武士の情けによって窮地を逃れる…という「勧進帳」の一場面のようなことがあったとは限りませんが、義経が北陸を通った可能性は否定できません。

 

同年(1187年)の秋には、義経が奥州藤原氏のもとを頼って行ったことが鎌倉や京都にも漏れ伝わっていきました。しかし、同年の10月、北方にその人ありと言われた藤原家当主の秀衡は病に倒れてしまいます。

臨終に臨んだ秀衡は、泰衡・国衡の兄弟の前途を案じ、「互いに異心をもたない」旨の起請文を書かせ、前妻の長男国衡に秀衡の後妻をめあわせたうえ、義経からも起請文をとり、子供達には義経を主君として仕え、ともに団結して頼朝を討つように…とこまごまと遺言を遺したのだそうです。

 

この秀衡の他界を最も喜んだ男が居ました。そうです、源頼朝です。頼朝でさえ一目を置いていた目の上のたんこぶ秀衡がこの世に居ない…

頼朝は奥州征伐の準備にとりかかるとともに、京都の朝廷に要請して義経逮捕を命ずる院宣をとりつけ、それを度々奥州に送りつけました。その一方で、

「義経の身柄を引き渡せば恩賞も与えようではないか…」

と秀衡の後を継いだ若い泰衡を誘惑するのでした。父の遺言と頼朝の誘惑との間で揺れに揺れた泰衡でしたが、ついに1189年(文治5)閏4月のこの日、衣川にある義経の住む館に500騎の兵をもって急襲を掛けました。迎え撃つ義経主従はわずかに10数騎。義経の家臣の奮闘むなしく討たれ、残る義経夫妻と子とは義経の手によって世を去ったのでした。

 

小生が小学生の頃に読んだ義経記にも書かれていた、その際の武蔵坊弁慶の「弁慶の立往生」と言われた戦いっぷりは、本当にショックでねぇ、何度も何度も繰り返し読みました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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