4月6日 <徳川吉宗、「公事方御定書」の編纂者を激賞(1742年=寛保2)>

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1742年(寛保2)のこの日、徳川吉宗は庶民を対象とする新たな法典「公事方御定書」を編纂した三奉行(寺社・町・勘定奉行)を賞しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代が始まった当初、幕府では司法事件は先例および単行法令で裁判を行っていました。8代将軍徳川吉宗の享保時代になると、先例も相当たまってきていました。

 

明律・清律など中国法の影響をうけて、立法に興味を持っていた吉宗は、先例を主たる資料とし、新しい取極も含めた、主として庶民を対象とする法典の編纂を計画しました。

 

元文年間(1736〜41年)に編纂は開始され、やがて老中松平左近将監乗邑を主任とし、1742年(寛保2)に完成したその法典は、「公事方御定書(くじかたおさだめがき)」と呼ばれる上下二巻からなるものでした。

 

そして1742年(寛保2)4月6日に、徳川吉宗は、その編纂に携わった三奉行(寺社・町・勘定奉行)を賞したそうです。この当時の町奉行には、あの大岡忠相が居ました。

 

上巻は81条の法令を収めた法令集で、下巻は先例・取極などから成っています。いずれも条文の体裁に整理されていますが、双方とも成立の年代が記載されており、成立年代が不明のものは「従前々之例」のように記載されており、先例集的色彩が強いものです。内容は刑法に関する規定がもっとも多く、民事法や訴訟法も含まれていて、単なる刑法典ではありません。この制定以後も条文の加除改訂は行われ、下巻は103条となった為、「御定書百箇条(おさだめがきひゃっかじょう)」と称されました。

 

この下巻の終わりには

「奉行中之外不可有他見者也」

とあり、秘密法典で、評定所で評議を行う三奉行(寺社・町・勘定奉行)には在職中交付されましたが、それ以外の者の閲覧が禁止されていましたなお、三奉行のほか、京都所司代および大坂城代にも在職中交付されました。

 

 

秘密にした理由は、江戸時代前半期の刑罰が苛酷てあったのに対して、『御定書』では相当これを緩和したので、これを公布すると、そのことを知った庶民が犯罪を行いやすくなるのではないかと懸念したためと考えられています。

 

この『御定書』は三奉行のほかは他見を許さないとされていましたが、評定所で実際に裁判の審理にあたるものは留役らで、 かれらの中には職務上の必要からひそかに 『御定書』を写して持っているものがあったようです。しかしこうした写本には誤りが少なくないので、勘定奉行所では1841年(天保12)にその校正本を作りました。これが『棠蔭秘鑑(とういんひかん)』と呼ばれるもので、当時の写本としてはもっとも信頼できるものです。

 

『公事方御定書』の編纂は庶民を対象とする法制に対して幕府が大きな関心を持つようになったことを示すものなのですが、これは庶民の勢力が大きく台頭していった、という時代の大きな動きを示すものであるといえましょう。江戸時代も中期になると、庶民が時代の顔として大きな力を持っていった、そんな時代でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

 

今日はここまでです。

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