1890年(明治23)のこの日、5年の難工事の末に完成した琵琶湖疏水の竣工式が明治天皇をお迎えして挙行されました。
これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
琵琶湖疏水(びわこ そすい)とは、琵琶湖の西隣にある京都市の商工業振興のために、明治時代に作られた湖水を流す水路(疏水)です。
京都市は江戸時代末期の禁門の変で市中の多くが焼け、また明治時代に入り首都機能が東京に移転したこともあり人口が減少し、産業も衰退してしまいました。
こうした現状に対し、1881年(明治14)に第3代京都府知事の北垣国道は灌漑、上水道、水運、水車の用水を目的とした琵琶湖疏水の検討を始めました。
ところが、その計画は、現地の地形からお雇い外国人技師は「NO」と言いましたが、工部大学校長の大島圭介は田邉朔郎(たなべさくろう)の同校卒業論文「琵琶湖疏水工事の計画」に着目し、京都府知事の北垣国道に田邉を推薦したのです。
そして、1883年(明治16)に工部大学を卒業した田邉は、卒業と同時に京都府の御用掛に採用され、至難の大工事である琵琶湖疏水の主任技術者として任じられ、設計監督に当たりました。
1885年(明治18)に田邉の陣頭指揮のもと着工した琵琶湖疏水の第一疏水は、5年の難工事のすえに大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成しました。
そして1890年(明治23)のこの日、明治天皇と昭憲皇太后の御臨席を頂き、竣工式が挙行されました。
この大事業を牽引した若き技師、田邉は1890年(明治23)の第一疎水完成後、帝国大学工科大学(工部大学校より改称)の教授に任命されて帰京し、同年、榎本武揚の媒酌で京都府知事の北垣国道の長女静子と結婚しました。
この田邉はのちに京都帝国大学の学長を務めています。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
- 2017年記事:<日本農民組合結成(1922年=大正11)>
今日はここまでです。
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