1560年(永禄3)のこの日、今川軍は田楽狭間で尾張の織田軍と交戦して大敗を喫し、海道一の弓取りと恐れられた今川義元も討ち取られました。
これは戦国時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
そのとき、今川義元は、桶狭間山(現・愛知県豊明市)の北方2kmほどに位置する田楽狭間(でんがくはざま)に陣取っていました。
当日は既に、その地方の丸根砦、鷲津砦では今川方と織田方とで交戦が行われており、いずれも今川方の勝利の知らせを受け、これで駿府の今川館を出てからというもの、全てが順調で、義元はことのほか上機嫌でした。
「義元の戈先(ほこさき)は、天魔鬼神も防ぐことができまい」
と心地よさそうに謡(うたい)をうたわせたそうです。
この地域を西に向かって進むには山間のわずかばかりの平地を縫うようにしてすすむしかなく、田楽狭間もそうした僅かに開けた場所でした。
義元は輿から降りて昼食を取ることにし、行軍中の部隊にも休憩を指示しました。近くの寺社から祝いの酒も届き、義元は部下たちにも酒を勧め、一隊には
「織田の若造、楽勝ぢゃん!」
とくつろぎムードが漂っていたことでしょう。
しかし、そうした義元ののんびりした休息タイムを、石や氷を投げつけるような驟雨(しゅうう)が襲います。その一帯はその為に音もかき消され、また視界も最悪でした。
そうした雨の中、じわり…と織田信長率いる2,000騎の精鋭部隊が太子ヶ根に忍び寄ってきて機を伺っていました。信長はあまりの風雨の物凄さに
「熱田大明神の神軍(かみいくさ)か」
と言ったほどだったそうです。
その信長は、清州城に本拠を構えていましたが、当日の未明、にわかに戦支度(いくさじたく)を始めました。全軍に出陣指令を出し、自らは
「人間五十年、下天(げてん)のうちをくらぶれば、夢まぼろしのごとくなり、ひとたび生をえて、滅せぬもののあるべきか。」
と日頃より愛好している幸若の「敦盛」の詞曲を舞ったのち、具足を付けると馬を馳せて主従6騎で熱田神宮を目指しました。そこで戦勝祈願をした頃には、家臣も顔を揃え始め数百騎。その後も馳せ参じた家臣含め、一部は別働隊で割きましたが、太子ヶ根に居合わせた軍勢が織田方の8〜9割の陣容です。
激しいにわか雨が去り、空に明るさが戻ってきたところで、信長は槍を取り、大音声で
「すわ、かかれ、かかれ!」
と攻撃を命じました。総勢2万5,000と言われた今川軍も、窪地のため身動きが取れません。義元の周りも300名ほどが居るのみです。
信長の急襲に、今川軍は大混乱です。
信長の家臣、服部小平太(一忠)が義元に一番槍を付けましたが返り討ちにされ、助太刀に入った毛利新介が仕留めました。その際に義元は毛利新助の左手の指を噛み切るという壮絶な抵抗をしたものの、ついには討ち取られてしまったのです。1560年(永禄3)5月19日午後2時頃のことだそうです。
この桶狭間の戦いを地図で見るとこんな感じです。
戦後、信長は義元の霊を慰めるとともに、義元の刀左文字を得て
「永禄三年五月十九日義元討捕刻彼所持刀 織田尾張信長」
の銘を刻しました。その刀は京都の建勲神社に所蔵されています。
2.他の年、この日の記事
他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。
今日はここまでです。
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