5月22日 <最後の朝鮮通信使を対馬で対応(1811年=文化8)>

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1811年(文化8)のこの日、最後の朝鮮通信使の応接が対馬で行われました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

日朝友好関係のしるしとして朝鮮国王が日本の武家政権主宰者に対して派遣した使節=朝鮮通信使は、江戸時代には12回(1607〜1811年)にわたって訪日しました。

 

その始まりは室町時代の15世紀に遡り、当初は日本情勢の探索や倭寇禁止の要請が目的でした。

 

江戸初期の3回は、答礼を捕虜帰国のために派遣されたものでしたが、1655年(明暦元)以降は徳川将軍の代替わりごとの派遣が定例とたっていきました。

 

対馬から江戸まで300〜500人にのぼる一行を送迎するための負担は、幕府・沿道諸藩にとって莫大な出費となり、動員される民衆の疲弊も著しかったこともあり、12回目の朝鮮通信使は対馬で応接するにとどめたのでした。その応接が行われたのが1811年(文化8)5月22日でした。

 

以降、両国は再興のための交渉につとめましたが、延期を重ねるうちに江戸幕府の崩壊を迎え、結局この1811年(文化8)の対馬応接が最後の朝鮮通信使となりました。

 

この朝鮮通信使、朝鮮・日本ともに多大な経費と労力とをかけて準備と接待にあたっていました。日本各地には通信使に縁のある書籍・芸能・絵画などが残されており、使節が日朝両国の文化交流の上では大きな役割を果たしたことがわかります。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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