5月 出来事

5月23日 <松平元康、岡崎城に帰還。松平氏旧領復活(1560年=永禄3)>

1560年(永禄3)のこの日、松平元康(後の徳川家康)は元の居城の岡崎城に入りました。

これ。室町時代(戦国時代)の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

松平元康は、三河国の土豪松平広忠(松平家第8代当主)の嫡男として1542年(天文11)に岡崎城で誕生し、幼名は竹千代と呼ばれていました。その岡崎城は、1524年(大永4)が松平清康(松平家第7代当主で広忠の父)が入って本拠としていました。

松平清康が陣没したあと、尾張国の織田信秀は三河国へ侵攻してきて、1540年(天文9)には遂に安祥城を占領するに至りました。

 

そうした状況で松平広忠は、織田氏による制圧を阻止するため、自国領土の東側を治めていた今川氏と結ぶ事を希望しました。これに対して今川義元は、広忠の嫡男竹千代を人質として今川家に預けることを条件としてきました。

数え年わずか6歳の竹千代は、1547年(天文16)8月に岡崎城を発ちましたが、駿府へ向かう途中に立ち寄った渥美郡田原城で義母の父・戸田康光の裏切りにより、船で尾張の織田信秀のもとへ送られてしまいました。こうして、竹千代の長い長い人質生活が幕を開けたのです。

 

西三河を制圧した織田氏に対して、今川義元は駿河臨済寺の長老である太原雪斎を主将として大軍を三河に送り、小豆坂において織田軍を打ち破り、次いで1549年(天文18)に安祥城を攻撃し、城を守っていた織田信秀の長子信広を捕らえました。ここで、人質として尾張にあった竹千代と信広との交換の和議が成立し、竹千代は駿府に連れて行かれることとなりました。

この人質交換によって、西三河を制圧していた織田氏は後退し、また1549年(天文18)3月には松平家第8代当主広忠が世を去っていたこともあり、今川氏が三河を支配することになりました。松平氏は宗家の竹千代が駿府で人質となっており、一族・家臣もまた今川氏の配下に組み入れられてしまいました。そして、居城の岡崎城には、今川氏から派遣された城代(朝比奈泰能や山田景隆など)が入っていました。

 

 

月日が経ち、1555年(弘治元)、松平竹千代は、駿府の今川氏の下で元服し、今川義元から偏諱を賜り次郎三郎元信と名乗り、更に翌々年1557年には、今川義元の姪で関口親永の娘・瀬名(築山殿)と結婚して元康と改名し、その頃には、今川軍の中で一方の大将となっていました。

 

1560年(永禄3)5月、義元は駿河・遠江・三河の3カ国の軍を率いて西上の途につきました。25,000とも40,000とも称せられた大軍です。

今川軍は、松平元康を先鋒とし、5月16日に岡崎、17日に池鯉鮒(ちりゅう。現・知立市)、18日には尾張に入り沓掛に陣取りました。

この段階での作戦は、以下の通りでした。

  • 義元は桶狭間を経て大高を回って鳴海城に入る。
  • その進路を妨げる丸根城を松平元康が、鷲津城を朝比奈泰能が攻撃する。
  • 大高城は鵜殿長照が守備する。
  • 清須方面の前哨には葛山信貞を将として派遣する。

 

しかし、この時、鷲津・丸根の織田方の砦に囲まれた大高城は、度々城内の兵糧が足りないことを義元に告げ、その救援を求めていました。大高城は知多郡大高町の背後にある小高い丘にあり、義元は出陣に先駆け元康にその糧食輸送を命じました。5月18日、元康は酒井正親・石川数正を従えて鷲津・丸根砦の間を突破して、小荷駄を大高城中に送り込み、見事にその大変棄権なミッションを果たしたのです。これは、「家康の大高城兵糧入れ」と称される出来事です。

 

そして翌19日午前中に、元康が丸根砦を、そして朝比奈泰能が鷲津砦を攻め落としたのでしたが、その日の午後、驚天動地の出来事が起きます。そうです…桶狭間の合戦で、元康が臣従していた今川義元が討たれてしまったのです。

その桶狭間の合戦については、拙Blogの別項をご笑覧下さい。

5月19日 <「海道一の弓取り」今川義元、田楽狭間で討たれる(1560年=永禄3)>

 

今回の記事は、この桶狭間の合戦はパパっと端折(はしょ)ります。

その頃、元康は大高城に入って休憩を取っていました。しかし、総大将の今川義元は、もうこの世には居ません。今川勢は一挙に崩れてしまいました。

そうして、元康は5月20日に岡崎へと帰っていき、そして岡崎城にいた今川勢が引き上げた1560年(永禄3)のこの日、13年振りに岡崎城内に入ったのでした。

ここに元康は本来の居城を取り戻し、譜代の家臣は元康を迎えて感涙にむせんだのでした。

 

下に貼り付けてあるのは、桶狭間の合戦の地図で、大高城や鳴海城、桶狭間のいち関係が判ります。

 

元康が、岡崎に戻るに当っては、逡巡があったそうで、Wikipediaにそうした記述があります。以下に引用しておきますね。

翌19日、丸根の砦を攻め落とし、朝比奈泰能は鷲津の砦を攻め落とした。義元が織田信長に討たれた際、大高城で休息中であった元康は、大高城から撤退。松平家の菩提寺である大樹寺に入り、自害しようとしたが住職の登誉天室に諭されて考えを改める。その後、今川軍が放棄した岡崎城に入ると独自の軍事行動をとり、早い段階で今川からの独立を果たそうとする。

(Wikipedia「徳川家康」から引用)

若かりし元康の内面が窺い知れる興味深いエピソードだと思います。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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