5月27日 <徳川吉宗、初めて象を見る(1729年=亨保14)>

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のこの日、

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1729年(亨保14)の今日、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は江戸城大広間で象を初めて見ました。

 

2.解説

 

洋学にも深い関心を寄せるなど、何事にも好奇心の旺盛であった江戸幕府第8代将軍徳川吉宗は、自ら中国人商人に象を送る様に命じ、1728年(亨保13)6月に交趾(コーチ。現・ベトナム)から雌雄ひとつがいの象が長崎に連れてこられました。

 

雌は同年9月に長崎で命を落としましたが、残る雄1頭は翌1729年(亨保14)3月13日を長崎を出発し、陸路江戸を目指しました。

 

それには、象が暴れても、それに耐えうる頑丈な船が当時国内に無かったことから陸路にならざるをえなかったそうです。

 

沿道は、この珍獣の見物人で大混雑となるほどの人気で、同年4月23日には、京都で中御門天皇もご覧になられています。

 

この上覧の際に面白い話があるんですよ。上覧には位階が必要な規則だったのです。そのため、その雄の象に対して「広南従四位白象」と位と姓名が与えられているそうです。

 

江戸に着いたのが、5月25日、長崎出発から2ヶ月余りでした。

 

 

そして1729年(亨保14)5月27日、徳川吉宗は江戸城大広間でこの象を観覧し、また諸役人や大奥の者にも見物を許しました。

 

その後、ゾウは浜御殿(はまごてん)で飼育されましたが、飼料代がかかり過ぎるため翌1730年(亨保15)、中野村(現東京都中野区)の源助という百姓に払い下げられ、見世物として大評判になりました。

 

しかし、来日後14年後の1742年(寛保2)12月に病死しました。

 

中野(最寄り駅は中野坂上)の宝仙寺には、現在も馴象之枯骨(じゅんぞうのここつ)として、その牙の一部が遺されています。

 

 

この、数奇な運命を辿った象のことを題材にした書籍があります。

  • 薄井ゆうじ著:「亨保のロンリー・エレファント」
  • 和田実著  :「亨保十四年、象、江戸へゆく」

手に取る機会があったら読んでみたいものです。

 

享保のロンリー・エレファント

 


享保十四年、象、江戸へゆく

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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