5月11日 <大津事件発生、朝野に激震走る(1891年=明治24)>

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1891年(明治24)のこの日、国賓として来日中のロシア皇太子ニコライは、琵琶湖見物に大津を訪れた際、警備を担当していた津田三蔵巡査にサーベルで襲われ重傷を負いました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今日ご紹介するのは、大津事件(湖南事件とも)と呼ばれる出来事です。

ウラジオストークで行われるシベリア鉄道起工式に臨む途中に来日したロシア皇太子ニコライ・アレクサンドロヴィッチ・ロマノフ(のちのニコライ2世)は、1891年(明治24)のこの日、琵琶湖見物のために訪れた滋賀県大津で、警備の滋賀県警察部巡査津田三蔵に襲われて負傷しました。その時、津田三蔵は人力車上のニコライに、サーベルを抜いて人力車上のニコライに切りかかり、頭部右側に9cmほどの重傷を負わせました。

この事件の動機は明確にはなっておらず、ロシアの日本への強硬な態度に不満を持っていた津田巡査が「一本(一太刀)献上したまで」(本人供述)とされており、斬りつけはしたが、殺意はなかったのではないかと考えられています。

 

Wikipediaに皇太子ニコライが人力車に乗っている写真がありました。例の如く無断で借用してきました。なかなかのイケメンですよ。写真または下の青文字のリンクからWikipediaの大きな写真が見られます。

<長崎で人力車に乗る皇太子ニコライ>

大国ロシアの皇太子に重傷を負わせたこの事件は、ロシアの報復があるのでは…と朝野に衝撃を与えました。

 

ニコライの接待係として随行していた有栖川宮威仁親王からの事件の経緯の電報を受け、明治天皇はすぐさま上京なさいました。そして同月13日京都の宿所に、19日には神戸出航当日に露艦に皇太子を見舞われたのでした。

 

成立直後であった松方内閣閣僚や元老らは、皇室に対する犯罪の刑罰を適用して犯人津田三蔵を死刑にする意向で、司法部にも圧力を掛けましたが、大審院長児島惟謙(こじまいけん)はこれを断固拒否し、特別法廷(大津地裁で開廷)担当判事らに通常謀殺未遂の適用を説得し、無期徒刑の判決を下させ司法権の独立を守ったのでした。

この事件で、青木周蔵外相らは引責辞職しました。

また、犯人の津田三蔵は、釧路集治監で同年9月に肺炎にかかり病死しています。

 

津田三蔵の写真もWikipediaにありました。こちらもまた無断で借用です。

<西南戦争(1877年)頃の津田三蔵>

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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