5月16日 <林子平、蟄居を命ぜられる。(1792年=寛政4)>

スポンサーリンク

1792年(寛政4)のこの日、「三国通覧図説(さんごくつうらんずせつ)」「海国兵談(かいこくへいだん)」の著者林子平は、江戸幕府により書籍の板木を没収され、さらに蟄居を命ぜられました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
広告


スポンサーリンク
スポンサーリンク

1.解説

 

林子平は、幕臣岡村源五兵衛良通の次男として1738年(元文3)に江戸で生まれました。父の良通は徳川氏の御書物奉行として620石の禄を食(は)んでいましたが、良通が罪を得て除籍されたので、子平ら兄弟は叔父の町医師林従吾(林道明)に養われました。

やがて、姉のなほが仙台藩6代藩主伊達宗村の側室に召し出された関係で、兄の林嘉膳は、1756年(宝暦6)正式に仙台藩士として取立てられ、150石が給せられました。しかし、同年5月に宗村が死去すると、なほが剃髪して仙台に下ったので、嘉膳は仙台詰めとなり、子平は兄に伴われて翌1757年(宝暦7)に仙台川内に移住しました。子平の身分は無禄厄介で部屋住みという情けないものでありましたが、一応、仙台藩士として生活するようになったのでした。

 

子平にとっては無禄厄介というのは却って有り難いところもありまして、寧ろ、これを逆手に取って、自由に出府し、北は松前から南は長崎まで全国を行脚して見聞を広めたのです。

江戸では、工藤平助に兄事し、大槻玄沢・宇田川玄随・桂川甫周らの蘭学者と交友して、新知識を学びました。また、長崎では通詞所蔵の世界図や翻訳地理書を写し、さらには「阿蘭陀船図説」を刊行しています。

 

やがて子平は、北方海域におけるロシアの進出に着目し、その脅威を説く「三国通覧図説」「海国兵談」を著し、世論の喚起を図りました。

 

しかし、これらの著書は「奇怪異説を説いて人心を惑わす」ものであり、老中松平定信の推し進める寛政の改革の出版統制令に抵触するとして、子平は1791年(寛政3)の暮に幕府召喚され、そして翌1792年(寛政4)のこの日、在所蟄居の判決を受け、板木・製本ともに没収され絶版とされました。

子平は、最終的に、仙台の兄嘉膳の許で蟄居させられます。その頃、子平は号を六無斎(ろくむさい)とし、

年の暮に妹から正月の供餅(そなえもち)が届けられた際に詠んだ歌

「とぶ首に祝うや暮の供餅」

板木を没収された際に詠んだ歌

「親も無し 妻無し子無し版木無し 金も無けれど死にたくも無し」

とまぁ、何とも潮垂れた様子や心境を色濃く滲ませる狂歌を残しています。

そんな不遇のうちに、翌1793年(寛政5)6月21日に世を去っています。享年56歳、ペリーがやってくる60年ほど前の死去でした。

 

この発禁書「海国兵談」には、以下の様に指摘しましたが、

地続きの隣国をもたない「海国」日本には、それに相応しい国防がなければならない。

オランダ船の装備・構造紹介。

砲を改善し沿海に配備すべき。

とくに江戸湾の防備は急務。

当時は、幕閣以外の者が幕政に意見するのはご法度であったのです。また、それとともに、老中松平定信は進んだ国際知識も備えていましたが、こうした林子平の意見が、上書などによって幕府に上申せず、直接世間に対して公開したことが気に食わなかったのであろうという見解もあります。

 

現在は、この林子平の「海国兵談」は現在岩波文庫で読むことが出来ます。以下に、Amazonのサイトへのリンクを貼り付けておきますね。ご興味の有る方は御覧ください。


海国兵談 (岩波文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボっていたので、この項目は無しです。

今日はここまでです。

広告



こちらのリンクからは他の方のblogをご覧頂けます。日本史に関する様々な情報満載ですよ。一度だまされたと思ってポチッ!とな…とされては如何ですか?
↓↓↓
スポンサーリンク
スポンサーリンク
5月出来事
スポンサーリンク
シェアする
wpmasterをフォローする

コメント

Translate »
error: Content is protected !!