5月18日 <新作中学唱歌「箱根八里」発表(1901年=明治34)>

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1901年(明治34)のこの日、東京音楽学校で中学唱歌として「箱根八里」が発表されました。

これは明治時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

「箱根八里」という唱歌はご存知でしょうか?

まず、以下のYouTubeにUpされている音源をお聞き下さい。

<箱根八里(初音ミク)>

 

懐かしいでしょ。

そんな風に思われるのは何歳位の方なんでしょうね。

さて、この「箱根八里」は1901年(明治34)のこの日と翌19日の2日間、東京音楽学校で催された中学唱歌披露会で、新作唱歌として発表されたものでした。作詞が鳥居忱(とりいまこと)、作曲は瀧廉太郎でした。

作詞の鳥居忱氏は皆に知られた代表作と呼べる作品は、この「箱根八里」のみです。一方の瀧廉太郎氏は荒城の月・雪やこんこん・鳩ぽっぽ・お正月・桃太郎といった歌曲が多く、ピアノ曲も遺した明治期の代表的な作曲家です。

 

この題名にもなっている箱根八里は、旧東海道に存在したある区間を指し

  • 江戸方面:小田原宿〜箱根宿までの四里
  • 京都方面:箱根宿〜三島宿までの四里

のことです。この歌にも歌われている様に、天下の険として名高く、交通・軍事の要所でした。

古代は山岳信仰、中世には地蔵信仰の霊地として栄え、江戸時代は箱根八里の道(東海道)が整い、関所が設置される一方、箱根七湯が湯治場として大変な賑わいを見せたようです。

 

箱根といえば、観光スポットの一つでもある箱根関が日本史的には外せませんね。

この箱根関は、幕府が東海道に設置した最も重要な関所の一つでした。中世までの箱根越えは足柄峠を迂回するのが一般的でしたが、江戸幕府は1618年(元和4)箱根路を整備して箱根宿を置き、これを東海道の正式ルートとさだめて、翌1619年(元和5)に改めて同地に恒常的な関所を設置したのです。

この箱根関は、小田原藩の管轄下におかれ、番頭以下20名前後の関所役人が居て、東海道を往来する通行者をチェックしました。特に注意したのは

 

「入鉄砲に出女」

(入鉄砲とは江戸へ入る鉄砲のことで、幕府は江戸での反乱防止、治安維持の為に武器が江戸に入る事を厳しく監視しました。出女とは、江戸から出る女性のことで、江戸に住む大名の妻女の逃亡を防ぐために、女性の通行をこれまた厳しく監視したのです。)

でしたが、後年幕藩制社会が安定し、今切関(いまぎれのせき)で鉄砲チェックが行われたため、中期以降は武器のチェックは形骸化したそうです。

しかし、江戸時代を通じて、旅行者にとっては最も厳しい関所は箱根関である、という認識で捉えらえられていたそうです。

 

ところで、この「箱根八里」の歌には楽しい替え歌があるのですよ。笑ってしまいますよ。

<スカラーソング・神長瞭月

<スカラーソング(学生節)>

前者・後者とも同じ歌ですが、後者の方がテンポが良く箱根八里の替え歌であることが一聴して判ります。ただ…音が劣悪です。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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