1790年(寛政2)のこの日、老中松平定信は大学頭(だいがくのかみ)林信敬(はやしのぶたか)に、儒学のなかでも朱子学を正学、その他学派は異学として、湯島聖堂の学問所・昌平黌(しょうへいこう。昌平坂学問所とも)で朱子学以外の講学を禁じました。これは寛政異学の禁と呼ばれる出来事です。
これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。
これは2分程度で読める記事です。
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1.解説
寛政の改革を推進した老中松平定信は、人材の登用に熱心で併せて学制の改革も推進しました。
冒頭にも書きました様に、1790年(寛政2)のこの日、松平定信は大学頭林信敬に、古学や折衷学が盛行するなか、儒学のなかでも朱子学を幕府の正学として、昌平黌で朱子学以外の学派の講学を禁じました。
これは、幕府に忠実な封建官僚を育成するのが目的でした。
昌平黌は真っ先に異学の禁を実施しましたが、これは官学をしての位置づけであったためでした。
この寛政異学の禁自体は世間一般には効力を持ったものではなく、また異学自体を否定したものでもありませんでしたが、幕臣教育と民衆教化を正学で行いたいとの幕府の意思表示でありました。そのため、諸藩の藩校でもこの異学の禁に倣ったところが多く、結果的に思想統制として多大な影響を与えた施策でした。
また幕府は、幕府の教学を担った林家塾を直轄化し、さらには朱子学の奨励と人材の発掘・登用のために、学問吟味や素読吟味という試験制度を設け、寛政の改革における一連の教学政策を推し進めました。
こうした動きの背景には、柴野栗山と連携した西山拙斎・頼春水・尾藤二洲らの異学の禁政策推進派の活動があったのです。
2.他の年、この日の記事
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