5月25日 <摂津・河内農民、綿の流通に物申す! 1,007ヵ村の国訴(1823年=文政6)>

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1823年(文政6)のこの日、摂津・河内の1,007ヵ村という広範囲の農民が結集し、綿の流通の自由化を求め国訴を行いました。

これは時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

国訴(こくそ)は「くにそ」とも読むそうです。

 

江戸時代、百姓たちは領主に対して何かを求めようとする際、様々な方法が取られました。その直接行動の代表的なものは百姓一揆です。その百姓一揆は、江戸時代だけでも3,000件以上ありますが、時代によって一揆の形態は変わって行きます。

17世紀始め頃は、中世の一揆と同じように武力蜂起や逃散がメインでした。17世紀後半になると、村々の代表が領主に直訴する代表越訴型の一揆が増えました。さらに時代が下り、17世紀末になると、村という地域性を超えた非常に広い範囲の百姓達が団結して起こす惣百姓一揆や全藩一揆などが各地で起こります。

 

今日の記事の国訴は、は暴動や蜂起ではなく、訴訟という合法的な手段による直接行動なのです。

江戸後期、摂津・河内・和泉国などで、大坂の特権的商人らによる菜種・綿・肥料などの流通独占に反対して、生産に関わる数百ヵ村が自由な売買などを要求した一連の訴願闘争は特に有名です。

 

寛政年間頃から大坂の三所綿問屋は、自己の特権を大坂市中と近接農村からさらに摂津・河内の村々に拡大しようとし、それと同時に、仲間外の商人がそれらの地域から綿を直接買い付けすることを排除する様になったのです。

実は、この問屋の独占権は、畿内の菜種や綿といった特産物の生産・流通に対して統制を強化しようとする幕府の施策が前提にあったのです。すなわち、この独占権は、幕府から保証された極めて協力な権益であったので、他国の商人は次第に摂津・河内の村々には足を向けなくなっていきました。

そのため、農民の綿の販売ルートは狭くなり、否応無しに三所綿問屋の集貨機構に支配されることになってしまいました。

 

こうした背景から、農民たちのフラストレーションはたまりまくり、その抵抗は次第に激化の度合いを高めていきました。株仲間という領主的とも言える流通機構に搾取され続けることを良しとせず、その統制をなんとか無力化しようという生産者の闘争が爆発するときが来ました。

 

1823年(文政6)のこの日、摂津・河内の786ヶ村が結集し、大坂の三所綿問屋の買い占め・買い叩きを排撃して、その株仲間の廃止を大坂町奉行所に訴願しました。この日に結集し遅れた村々も5月27日と6月2日とに追訴し、合計なんと1,007ヶ村に膨れ上がった大規模な訴願に発展しました。

 

幕府もこれに押されては7月6日に、農民たちのこの主張をしぶしぶ綿の自由売買を認めざるを得なくなったのです。その結果、明治維新まで自由な市場が維持されました。

 

江戸幕府や諸藩は、一揆におされて、今日ご紹介した出来事の様に、要求を部分的に認める事もありましたが、多くは武力によって鎮圧し、一揆の指導者は厳罰に処されました。幕府の一揆対策にも拘わらず、しばしば発生した凶作や飢饉によって、百姓一揆は増加の一途を辿って行きました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

  • <日本初の列車食堂運行開始!(1889年=明治32)>

今日はここまでです。

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