5月29日 <第二次東禅寺事件発生(1862年=文久2)>

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1862年(文久2)のこの日、1人の武士が東禅寺にあった英国公使の寝室に近づいて発見され、英国水兵2人の命を奪って逃走しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

水戸藩士が英国仮公使館を襲撃したちょうど1年後の1862年(文久2)5月29日の夜、1人の武士が公使の寝室に近づいて発見され、英国水兵2人の命を奪って逃走しました。

 

当時、公使オールコックは賜暇帰国し、代わって陸軍中佐ニールが代理公使として来日し、同年5月15日江戸高輪東禅寺の仮公使館に入り、水兵30名が警備に当たっていました。また江戸幕府は麾下士および大垣・岸和田・松本3藩士約500名で厳戒体制をとっていました。

 

翌日、松本藩邸で同藩士伊藤軍兵衛が自害し、犯人と判明しました。軍兵衛がこの挙に出たのは、水戸藩士が一周年を期して再襲撃する噂を聞いて外国人のために同胞同士が相争うことを憂い、また警備による藩の出費をなくすために公使を殺害して警備の任を解こうと考えたことによるものでした。

 

同年6月2日、幕府は松本藩の警備の任を解き、またニールの要求する償金1万ポンド(約4万ドル)を過大として拒絶しましたが、間もなく生麦事件 が起って交渉は中断しました。そして翌1863年(文久3)5月9日、要求通り1万ポンドの賠償金を支払って解決しました。

 

じつは、こうした外国人襲撃が多発した理由には、経済的な要因もあったのでした。

 

当時、それまでの極めて限定された貿易から市場開放へと向かっていた時期で、急速に増大する輸出に生産が追いつかないため、物価が高騰していました。そこで幕府は、従来の流通機構を維持して物価を抑制するために貿貿易の統制をはかり、1860年(万延元)、雑穀・水油・蝋(ろう)・呉服・生糸の5品は、横浜直送を禁止し、必ず江戸の問屋を経て輸出するように命じました(五品江戸廻送令)。しかし、在郷商人の抵抗と、条約に定められた自由貿易を妨げる措置であるとする列強の抗議にあい、効果は上がりませんでした。

 

また、金銀の交換比率が、外国では1:15、日本では1:5と著しい差があったため。 外国人は銀貨を日本にもち込んで日本の金貨を安く手に入れ、その差額で大きな利益を得 ようとしました。そのため、10万両以上の金貨が海外に流出したのです。

 

幕府は金貨の品位を大幅に引き下げた万延小判を鋳造してこの事態を防ごうとしましたが、貨幣の実質価値が下がったため物価上昇に拍車をかけることになり、下級武士や庶民の生活は著しく圧迫されました。

 

そのため貿易に対する反感が高まり、反幕府的機運とともに激しい攘夷運動がおこる一因でした。そして、それがこうした外国人を襲う事件ぐ要因の一つとなりました。

 

この前年に起こった第一次東禅寺事件も拙blogで記事にしており、以下のリンクからご確認頂ければ幸いです。

5月28日 <東禅寺の英仮公使館を襲撃・第一次東禅寺事件(1861年=文久元)>

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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