5月5日 <徳川家康、大阪夏の陣に出陣(1615年=慶長20)>

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1615年(慶長20)のこの日、徳川家康が大阪夏の陣に出陣しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1614年(慶長19)11月に行われた大坂冬の陣の後、大坂の浪人たちは、その講話が自分たちの奮闘に報いる何物をももたらさなかった事に不満を感じていました。

 

さらに、徳川方の悪辣な城の取り壊しにも憤っていたのも、それらの浪人たちでした。

 

そうした状況下で、ふたたび戦争が起こるのではないか…という不穏な空気が上方、西国に流れていました。

 

1615年(慶長20)3月12日、京都所司代板倉勝重(いたくらかつしげ)は、大坂方がふたたび兵糧・弾薬を集め、浪人を募集し、戦争の準備をしている様子がある…と駿府に報告してきたのでした。

 

大坂不穏の情報が流れているのを申し開きをするために、同年3月24日、豊臣家の家臣の大野治長(おおのはるなが)は駿府に使者を派遣しました。しかし、家康の態度は極めて強硬でした。

 

「もし、豊臣氏が幕府に敵意を持っていないのなら、その証拠として豊臣氏が大阪城を出て、大和または伊勢に移るか、さもなくば浪人をことごとく追放し、もともとの家臣だけにするか、どちらかを選べ」

 

と要求したのです

 

どちらも豊臣氏としては受け入れがたいものでした。

 

4月5日、大坂からの使者が、家康が提示した条件には従えない旨の弁解に駿府を訪れました。その日、家康は第9子の義直の結婚式に臨むため、名古屋へ出発しようとしていましたが、この返事を聞くと、即座に出兵を腹決めしたのでした。そうして、家康は諸大名に出陣を指令しました。

 

4月12日、名古屋城における義直の婚儀を終えた家康は、その足で上京しました。

 

そして4月24日に、再び豊臣氏に対して、大和郡山に移り、召し抱える浪人を追い出せ…と要求したのでした。これが、最後通告でした。

 

1615年(慶長20)5月5日、家康は15,000騎の旗本を率いて二条城を出発し、河内国星田に出陣しました。同日、将軍秀忠も伏見城を出陣し、幕府の総兵力15万が大坂を包囲したのでした。

 

家康は二条城出発に際し、兵糧は3日分用意すれば良い…と言ったそうです。大阪方は真田信繁(さなだのぶしげ。真田幸村のこと)の奮戦にもかかわらず、7日夕刻までに主力を全滅させ、大阪城は炎上しました。そして翌8日、豊臣秀頼や淀君らが自決し、豊臣氏はついに滅亡したのでした。

 

その際の、大阪方の奮戦は昨年の大河ドラマでも描かれましたねぇ。その働きぶりは、しばしば徳川方をたじろがせました。細川忠興(ほそかわただおき)は

「真田信繁・後藤又兵衛の手柄は古今ともにないほどのものであり、木村重成・明石掃部(あかしかもん)の手柄も立派なものだ」

そ賞賛し、また

「勝敗は半々であったが、結局こちらの人数が多いから勝った」

と国へ報告しています。

 

特に、7日の戦闘では、真田信繁は茶臼山の家康の本陣を急襲し、旗本を3里ほども追い散らしたのです。さしも歴々の三河武士でさえも逃げ出さないものは殆どなく、家康の側には金地院崇伝(こんちいんすうでん)と本多三弥(ほんださんや)しか居なくなったこともあったくらいでした。この信繁の率いた一軍は

「真田日本一之兵」

と絶賛され、このほか大坂方の兵は

「さてさて、昔にも今にも比類なき手柄、筆紙につくしがたく…」

と讃えられました。しかしながら…多勢に無勢…というのは厳しい現実であったようです。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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