5月9日 <住友家に別子銅山の開発を許可(1691年=元禄4)>

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1691年(元禄4)のこの日、江戸幕府は、住友家四代住友友芳(すみともともよし)が前年に発見した伊予別子銅山の開発を住友家に許可しました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

近世大坂の豪商住友家(泉家)は、江戸初期から銅精錬・銅貿易を主業とし、東北や中国地方に銅山を経営していました。そののち、金融業も兼ねていたこの住友家は、住友財閥の前身なんです。

初代の政友は変わった経歴の持ち主で、越前国出身で、仏教の新宗派涅槃宗(ねはんしゅう)の高僧となりましたが、法難のため還俗して京都で書籍、薬種業を営みました。

二代友以(とももち)は、南蛮吹きと呼ばれる銅精錬の方法の開発者である曽我理右衛門の実子で、政友の娘婿でした。その友以は、銅商泉家住友を興し、1623年(元和9)に大坂に銅吹所を設け、大阪を銅精錬・銅貿易の中心地とするのに貢献しました。

三代友信以降吉左衛門を称し、銅山稼行に進出しました。

 

そして今日の記事の主役、四代吉左衛門友芳は、伊予国(現・愛媛県)東部に発見した別子銅山の開発に関して、1691年(元禄4)のこの日、幕府から許可され、操業を開始しました。

それから8年後の、1699年(元禄12)には350万斤を採掘して江戸期の最高産額を記録し、別子銅山は住友家の家業・事業の柱となったのでした。

今日の住友家の基礎、住友財閥の出発点は、友芳が開発したこの別子銅山によって築き上げられたもので、住友家の歴史の中では、この四代吉左衛門友芳を「住友家中興の祖」と位置づけています。

別子銅山は1973年(昭和48)に閉山しましたが、282年間の採掘量は2,500万トン、産銅量は70万トンに及びました。この銅鉱業を核として様々に事業展開した住友家は住友財閥を形成し、現在でも鉱業部門は住友グループの特色を成しています。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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