5月9日 <高島秋帆、幕閣面前で洋式砲術を実演(1841年=天保12)>

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1841年(天保12)のこの日、高島秋帆は幕命により、高島流砲術を幕閣の前で実演してみせました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

長崎の有力町人であった高島秋帆(たかしましゅうはん)は、最初に荻野流砲術を修めましたが、のちに西洋砲術の威力を知り、出島のオランダ人からその西洋砲術を学び、1834年(天保5)には高島流砲術を創始しました。

 

アヘン戦争で清國が敗北した情報を得た秋帆は、1840年(天保11)9月に幕府に以下の持論を『天保上書』として提出しました。

「清國の敗北は砲術の未熟によるもので、火砲の近代化が必要…」

 

時の老中水野忠邦は、翌1841年(天保12)保守派の反対を押し切って高島を出府させ、同年5月9日、武蔵国の徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平周辺)で高島流砲術を実演させました。

 

この成功により、幕府は高島流砲術を採用することになりました。その流儀は幕臣の下曽根金三郎(下曽根信敦のこと)や江川太郎左衛門英龍などに伝えられ、高島流の興隆と洋式砲普及の礎となりました。

 

しかし、秋帆自身は、鳥居耀蔵(とりいようぞう)らにあらぬ嫌疑をかけられて、翌1842年(天保13)に逮捕され、1846年(弘化3)に武蔵国岡部藩で幽閉されてしまいます。そんな幽閉状態でも、秋帆に洋式砲術を教わりにくる藩が結構居たそうです。

 

1853年(嘉永6)にペリーが来航すると、情勢が変わり、また江川英龍の尽力もあり赦免され、1855年(安政2)には講武所の教授方頭取、1857年(安政4)には講武所砲術部師範役に任じられました。

 

余談ですが、東京都板橋区には高島平という地名がありますが、Wikipediaにその由来が次の様に書かれていました。

「高島平」という地名は、秋帆によってこの場所で初めて洋式砲術と洋式銃陣の公開演習が行われたことにちなんで名づけられたものである。

(Wikipedia「高島秋帆」から引用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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