6月1日 <江戸幕府、佐渡金山を直轄化(1601年=慶長6)>

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1601年(慶長6)のこの日、江戸幕府は佐渡金山を幕府の直轄としました。

これは安土桃山時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

今回の記事は佐渡金山の話ですが、佐渡の鉱山は正確に申せば佐渡金銀山なのですね。

 

おやおや、彩ちゃんと黒猫のPinotとがまたまた売れない漫才をやっています。

Pinot
ドサ回りって言葉は知ってるにゃ?
知ってる、知ってる! 「どさ?」 「ゆさ」ってやつでしょ
ふた文字で会話が成り立つなんて、ディープだよねぇ!
Pinot
にゃ…、ドサ回りって二流芸人の地方巡業のことを言うんにゃ
Pinot
その「ドサ」は「佐渡」を逆から読んだ言葉だそうにゃ。

 

佐渡は、奈良時代から流刑地として使われていますが、時代劇などで罪人を佐渡送りにする…などという描写で一般的な認知度は高いような気がします。

黒猫Pinotが言う様に、地方巡業を指すドサ回りという言葉は、流刑になるとなかなか戻ってこられないことになぞらえて、一度地方巡業にでるとなかなか都市部に戻ってこられないことを表現した、とされています。ドサは佐渡を逆から読んだものですね。隠語でひっくり返して言うのは転倒語と呼ばれます。一般的なものとしては

  • どや → 宿(やど)のこと。用例、ドヤ街
  • ショバ → 場所(ばしょ)のこと。用例、ショバ代
  • ヤサ → 鞘(さや)、転じて家のこと。用例、会話で「ヤサはどこよ?」

などがあります。

 

さて、佐渡の金銀鉱山ですが、メインとして使われたのは1601年(慶長6)に開坑した相川鉱山(相川町)です。

西三川(真野町)では平安末期から砂金を産出し、16世紀にはかなり盛んだったそうです。

文禄年間(1592〜96)に鶴子銀山(つるしぎんざん)が、1601年(慶長6)には隣接する上記の相川鉱山での産出が始まり、17世紀前半の産銀は推定で16,000〜24,000貫目ほどで、当時世界屈指の銀山でした。

また、金も産出しており、産出にあたり「荷分法」という技術を用い、技術的にも先進的な鉱山だったそうです。

 

1601年(慶長6)のこの日、江戸幕府は、それまでは上杉領であったこの佐渡を徳川家康の所領とし、佐渡金山も幕府の直轄としました。

 

江戸時代は、幕府の直轄であった佐渡金銀山は、1869年(明治2)に官営となり、1896年(明治29)には三菱に払い下げられ、昭和前期までは日本の主要な金銀山でした。長い歴史を残した鉱山でしたが、1989年(平成元)に閉山しています。

現在の使用形態についてWikipediaには次のような記述があります。

現在は金の値段と労働賃金がつりあわず、採算が取れないため、採掘を中止して観光施設となっている。坑道の総延長は実に約400kmに及ぶが、そのうち約300mが観光ルートとして公開されており、採掘風景を再現した人形が70体あまり設置されている。

(Wikipedia「佐渡金山」から引用)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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