6月16日 <六波羅探題の設置(1221年=承久3)>

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1221年(承久3)のこの日、承久の乱の鎮圧のために大軍を率いて入京した北条泰時と北条時房とは、六波羅の館に移りました。のちに六波羅探題と呼ばれる役職の始まりです。

これは鎌倉時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

本日は、後鳥羽上皇が起こした承久の乱の終わり頃の話です。

承久の乱については、その乱が勃発した時のことを書いた記事が拙blogにあります。

→ 5月15日 <後鳥羽上皇、北条義時追討の宣旨を下す。承久の乱。(1221年=承久3)>

併せてご笑覧頂ければ幸いです。

 

平安時代後期、現在の京都の東山区、鴨川の東岸で、五条大路末と六条大路末との間のあたりに平氏が造った邸宅群があります。平清盛の泉殿、平頼盛の池殿、敦盛の門脇殿、重盛の小松殿などの邸宅が立ち並び、「平家物語」によれば広さ20町以上、3,200余りの屋敷があったというから壮大なものです。

この邸宅群は六波羅殿とよばれ、平氏政権の拠点の一つでしたが1183年(寿永2)平氏が都落ちする際に、平氏自らの手によって火を放たれ、邸宅は灰燼に帰しました。

そののち、南方を七条大路末まで拡大した地域に置かれたが、鎌倉幕府による六波羅探題という組織でした。

 

 

さて、承久の乱ですが、時の執権北条義時は、大江広元の意見を入れて短期決戦策で行くことに決めました。

1221年(承久3)5月22日、長子の北条泰時を大将、そして弟の北条時房を副将として軍を上京させました。それも、東海、東山、北陸の3道からという物凄い侵攻です。「吾妻鑑」によれば、幕府軍は最終的に19万騎という大軍に膨れ上がりました。

朝廷軍はこの大軍と木曽川や宇治・勢多で戦いましたが、兵力差は歴然としており瞬殺で壊滅状態となり、同年6月14日、幕府軍は京都になだれ込んで占拠してしまいました。

 

1221年(承久3)のこの日、北条泰時と時房とは六波羅の館に入りました。

そこで2人は、承久の乱の後処理を行いました。

その処理を済ませたあとも、2人は六波羅の南北の居館に住み、それまでの京都守護にかわって京都市中の警固や朝廷の監視、西国の御家人・武士を統轄し、西国の行政・司法を管掌しました。これがのちの六波羅探題の始まりです。

この六波羅探題という役職は、鎌倉幕府において執権に次ぐ要職とされ、北条一門の有力者が任命されました。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

昨年は記事作成をサボったので、この項はなしです。

 

今日はここまでです。

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