6月2日 <近江絹糸の人権争議発生(1954年=昭和29)>

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1954年(昭和29)のこの日、近江絹糸労組が経営者に対し、組合承認および外出・宗教・結婚・通信の自由など22項目の要求を行いました。近江絹糸争議・近江絹糸人権争議と呼ばれる出来事です。

これは昭和時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

1948年(昭和23)の綿紡再建期には資本金3,000万円にすぎなかった近江絹糸紡績株式会社は、その後10年足らずの間に資本金10億円、従業員13,000人の業界5指に入る大企業に急成長しました。

 

その急成長の秘密は労務管理の前近代性にあるとして、1954年(昭和24)5月に

「格子なき牢獄に呻吟する奴隷生活に終止符を打とう!」

と叫んで、自主的な労働組合が結成されました。

 

労務管理の前近代性って、どんなだったのかな?ということに関しましてはWikipediaの記述をまるっとご紹介しましょう。

同社は自社経営の近江高等学校生徒を工員のように使い、滋賀労働基準局から摘発されたのを始め、工員が彦根高等学校(現在の滋賀県立彦根西高等学校・滋賀県立彦根東高等学校・滋賀県立彦根工業高等学校に該当)に入学したところ近江高校への転校を強制したり、女子は結婚すると退社、男子も結婚すると転勤で、結婚すると退社か別居しかなく、本社200人中家族と同居している者は専務1人だけであった。また自宅通勤者もほとんどなく寮生活を強制していた。寮では従業員教育として、仏間での礼拝が強制された。

(Wikipedia「近江絹糸争議」から引用)

 

まぁ、なんとも酷い話ですねぇ。

そして、1954年(昭和29)のこの日、自主結成された組合は経営者側に対して以下のような22項目の要求を出しました。

  1. 労働組合の承認
  2. 御用組合の解散
  3. 拘束8時間労働の確立
  4. 仏教の強制反対
  5. 結婚の自由を認めよ
  6. 別居生活強制反対
  7. 信書開封・私物検査即時停止
  8. 外出の自由を認めよ
  9. タイムレコーダー即時復活と残業手当支給
  10. 月例首切反対
  11. などなど…

これに対し、6月4日、会社側が要求・団体交渉を拒否したため、本社・岸和田・彦根・中津川・大垣の各工場に勤務する従業員の約半数5,700人が新組合のもとに結集し、全繊同盟の指導下に、次々に無期限ストに突入しました。

 

会社側は猛犬を用いたり、組合員の親に偽電報を打つといった卑劣な行為に出ましたが、労組側の結束は固く膠着状態が続きました。また世論は、「女工哀史」の現代版に抗議し、基本的人権の尊重を要求する項目を多く盛り込んだこの争議を人権争議と呼び、労組を支持しました。9月16日、106日間に及んだ争議は、中労委の斡旋によって労働条件の改善が確約され、労組側の勝利に終わりました。

 

しかし、その後、労働協約などの団体交渉だ難航して決裂状態になり、組合は再び闘争に入りましたが、会社側は重役陣を更迭して軟化し、12月4日に全面解決しました。

 

女子労働者のエネルギーを燃料として106日間を戦い抜いたこの争議は、同じように圧迫と虐待とに苦しむ全国の中小企業の労働者や未組織労働者に強い刺激と勇気を与え、「近江絹糸に続け!」の声が広がったどうです。

 

この近江絹糸争議を題材にした三島由紀夫の「絹と明察」という小説があります。ご興味がおありの方は、以下のリンクからAmazonの商品が見られます。どうぞご覧ください。


絹と明察 (新潮文庫)

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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