6月22日 <市川團十郎、江戸から追放(1842年=天保13)>

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1842年(天保13)のこの日、老中水野忠邦が推し進めた天保の改革の一環で、市川団十郎が江戸10里四方追放に処せられました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

江戸時代、上方では浄瑠璃が最も人気のあった大衆娯楽でしたが、江戸では歌舞伎が一番人気でした。

 

芝居小屋と言われた劇場も、山村座が1714年(正徳4)の絵島事件で取り潰されてから、中村・市村・森田の三座が江戸三座と呼ばれて幕末まで続きました。

 

その座名が示すように、中村勘三郎(なかむらかんざぶろう)・市村羽左衛門(いちむらうざえもん)・森田勘弥(もりたかんや)がそれぞれ太夫元(たゆうもと)として世襲の興行権を認められ、この三座以外に歌舞伎の興行はゆるされませんでした。

 

毎年11月1日は、新しく契約した役者による顔見世(かおみせ)狂言の初日であり、その前夜は各町で前夜祭をやって小屋に出かけ、芝居茶屋から酒肴を運ばせて、飲んだり食べたりしながら、翌日にかけて芝居を楽しんでいたようです。このように、歌舞伎は市民生活に密着した楽しみでした。

 

19世紀初頭のいわゆる大御所時代、江戸歌舞伎には、

  • 7代目市川団十郎
  • 3代目尾上菊五郎
  • 5代目岩井半四郎
  • 初代尾上松緑

といった名優たちが揃っていました。

 

その7代目市川団十郎は、江戸っ子が誇りとした名優で、「助六(すけろく)」「暫(しばらく)」「矢の根(やのね)」などを「歌舞伎十八番」として選定したことでも知られています。

 

老中水野忠邦は、天保の改革の一環として奢侈(しゃし)を厳しく取り締まりましたが、歌舞伎はその的とされていました。

 

水野忠邦は、最初は芝居小屋を取り潰そうと考えていましたが、側用人の強い反対もあり、1841年(天保12)に中村座が消失したのを機に、三座を場末の浅草猿若町に移し、また役者の生活にも色々な統制を加えました。

 

そして、1842年(天保13)6月22日には、奢侈を理由に市川團十郎を江戸10里四方追放に処しました。

 

そのとき、52歳の円熟した芸を見せ「大江戸の飾海老(かざりえび。7代目の本名は海老蔵なのです)」と称された団十郎は、こうして放浪の旅烏となってしまったのでした。

 

団十郎は大坂や各地のひいきを頼って転々としながら巡演し、1849年(嘉永2)に赦されて8年ぶりに江戸に帰りましたが、もう往年の人気はありませんでした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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