6月22日 <薩土盟約が結ばれる。西郷どん大いに参画(1867年=慶応3)>

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1867年(慶応3)のこの日、倒幕の動きが急速に展開をみせるなか、薩摩藩と土佐藩とは大政奉還に向けて両藩が協力することを誓った薩土盟約を結びました。

これは江戸時代の出来事です。少し詳しく覗いてみましょう。

これは2分程度で読める記事です。
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1.解説

 

第二次長州征討や兵庫開港問題で強引な政策をとった幕府に対し、諸藩からは反発がありました。

そうしたなか雄藩は旧来とは異なる結集方法を模索していました。

その先駆けが1866年(慶応2)1月に締結された薩長連合でした。

 

その翌年の1867年(慶応3)正月、土佐藩士後藤象二郎と坂本龍馬とは長崎で会っていました。そこで両者は大政奉還と公議政体を創出することとで政局の安定を図ろうと考えました。

その考えを、四侯会議の一員として在京中の土佐藩主山内豊信に建議するために後藤・坂本両名は長崎から藩船に乗って京都に向かい、6月13日に入洛しましたが、豊信はすでに帰国した後でした。

その頃、京都では薩摩藩の倒幕挙兵の噂で持ちきりでした。

後藤らは何とかしてこれを未然に防ぐために、薩摩藩の在京代表者に会談を申し入れました。

 

そして、1867年(慶応3)のこの日、土佐藩の後藤象二郎・寺村左膳・福岡孝弟・真辺栄三郎・坂本龍馬・中岡慎太郎と薩摩藩の小松帯刀・西郷隆盛・大久保利通とが会談し、盟約書が交わされました。盟約文は、坂本龍馬が長崎から京都へ向かう途中で作った「船中八策」を骨子とし、大政奉還・公議政体の創出にむけての両藩の協力が謳われました。

 

翌7月に、後藤は京を発って帰国し、山内豊信は後藤の建議を容れ、それ以降、大政奉還は土佐藩論となりました。

 

薩土盟約の内容について、Wikipediaにまとめられているので以下に引用します。

約定書の内容は以下の7箇条から成る。(Wikipedia「薩土盟約」から引用)

  1. 大政の全権は朝廷にあり、皇国の制度や法の一切は京都の議事堂から出るべきである。
  2. 議事院は諸藩の費用供出で成り立つ。
  3. 上院と下院を分け、議員は公卿から諸侯・陪臣・庶民に至るまで正義の者を選挙し、諸侯も職掌によって上院に充てる。
  4. 将軍職は執政の最高官ではないので、徳川慶喜は職を辞して諸侯の列に戻り、政権を朝廷に帰するべきである。
  5. 諸外国との条約は兵庫港(神戸)で新たに外務大臣が交渉し、新条約を制定して通商を行う。
  6. 律令以来弊害のある朝廷の制度を刷新し、地球上に恥じない国体を建てる。
  7. 皇国復興の議事に当たる者は公平無私を貫き、人心一和して議論を行うべきである。

倒幕に向けて大きなうねりが一段と加速するきっかけとなった盟約でした。

 

2.他の年、この日の記事

他の年には、こんな記事を書いています。こちらも併せて御覧下さい。(記事が先の日付の場合は表示されません。当日にならないと公開しないように予約投稿しているためです)。

今日はここまでです。

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